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ピエトロ・ダ・コルトーナ : ミニ英和和英辞書
ピエトロ・ダ・コルトーナ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ピエトロ・ダ・コルトーナ : ウィキペディア日本語版
ピエトロ・ダ・コルトーナ[ちょうおん]

ピエトロ・ダ・コルトーナ(Pietro da Cortona,1596年11月1日-1669年5月16日)、本名ピエトロ・ベレッティーニ(Pietro Berrettini, またはPietro Berettini)は、盛期バロックイタリア画家建築家である。とりわけフレスコ画装飾、絵画の分野で数多くの作品を残している。教皇ウルバヌス8世の時代に、彼はベルニーニ、ボッロミーニと並んで、ローマにおける主要な建築家の一人であった。
代表作であるローマバルベリーニ宮殿の巨大な天井画は、建築装飾、絵画、現実空間の区別がつかないようなイリュージョン(錯視)効果をもち、後世の美術家に多大な影響を与えた。
== 生涯 ==
ピエトロ・ダ・コルトーナは1596年フィレンツェ近郊のコルトーナに石工の子として生まれた。フィレンツェの画家コモディに師事し、1613年、師とともにローマへ出て、以後主にローマで活動した。ローマでは、はじめ銀行家のサッケッティ家に見出され、同家のためにカステル・フサーノの別荘を神話・寓意主題のフレスコ画で装飾した他、一連の絵画作品を描いた。中でも≪サビニの女たちの略奪≫(1629年頃)には、彼の長所(人物像・物語画を描く能力)と短所(人物像の心理的描写の欠如)が明白に表れている。そのダイナミックな構成、人物の劇的なポーズなどは、1620年代頃までのローマで支配的であった古典様式とも、カラヴァッジョ風の写実表現とも一線を画すものであり、盛期バロック期の特色がよく現われている。
ピエトロはローマの実力者であったフランチェスコ・バルベリーニ枢機卿の目にとまり、フランチェスコのおじに当たる枢機卿マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニが1623年にローマ教皇ウルバヌス8世となってからは教皇庁関係の仕事も手がけるようになった。ウルバヌス8世はガリレオ裁判に関わった教皇として知られるが、多くの芸術家に活躍の場を与えた芸術の守護者としても知られる。ピエトロはパラッツォ・バルベリーニ(現ローマ国立美術館)2階広間の天井画制作という大仕事を依嘱され、1633年から1639年にかけて制作したこの天井画は彼の代表作となっている。この間、1633年から1634年にかけては公立美術学校であるアカデミーア・ディ・サン・ルーカの校長を務めた。1637年から1647年にかけてはフィレンツェに滞在し、トスカーナ大公の注文でピッティ宮殿の装飾に携わった。その後は再びローマへ戻って、晩年まで制作を続けた。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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