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バンジョー・パターソン : ミニ英和和英辞書
バンジョー・パターソン[ぱたー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
パター : [ぱたー]
 【名詞】 1. putter 2. (n) putter

バンジョー・パターソン : ウィキペディア日本語版
バンジョー・パターソン[ぱたー]

アンドルー・バートン・“バンジョー”・パターソン(Andrew Barton "Banjo" Paterson, 1864年2月17日 - 1941年250日) は、オーストラリアの詩人、ジャーナリスト、著作家。オーストラリア奥地(ブッシュ、ないしアウトバックという)での生活に焦点を当て、多くのバラッド、詩を書いた。詩の代表作としては「ワルツィング・マチルダ」、"The Man from Snowy River"(スノーウィー川から来た男)、"Clancy of the Overflow"(オーバーフロウ牧場のクランシー)が挙げられる。
==経歴==

ニュー・サウスウェールズ州オレンジ市に近いナランブラ(Narrambla)で生まれた。父はスコットランド移民のアンドルー・ボーグル・パターソン(Andrew Bogle Paterson)、母はオーストラリア生まれのローズ・イサベラ・バートンという女性で〔、エドマンド・バートンの親類であった 。一家はパターソンが5歳になるまで人里は離れたバッキンバー牧場(Buckinbah Station)で孤立して暮らした。パターソンのおじに当たる人物が死亡すると、一家はその農場を引き継ぐためメルボルン=シドニー間の主要道路に程近い土地に移った。幼年期のパターソンはここで多くの牛車や牛追いたちの姿を観察したのだった。彼はマランビジー川やスノーウィー山系の方面からやって来る、野外レースやポロをやる騎手たちを見ることもあった。彼はその影響で大の馬好きになり、作品にもそれが反映されている〔。
パターソンは初等教育を家庭教師から受けたが、馬に乗れるようになるとビナロング(Binalong)の町の学校に通うようになった。1874年、シドニーに上京し、シドニー・グラマー・スクールに入学。学業、スポーツともに優秀さを示す。16歳で大学入学を許可される。法律事務所の事務員となり、1886年8月28日には事務弁護士の資格を取得した。〔
その直前の1885年、パターソンは「ザ・バンジョー」("The Banjo")の筆名を用い、『ブレティン』誌(The Bulletin)のシドニー版に詩を載せ始めた。バンジョーという名は彼がお気に入りだった馬の名である。パターソンは、(「ブレティン」の誌風と同様に)熱烈な国粋主義者であった。1889年には"Australia for the Australians"(オーストラリアはオーストラリア人のもの)という小論文を発表している。1890年、"Clancy of the Overflow"(オウヴァーフロウ牧場のクランシー)を発表し、一躍脚光を浴びる。
1903年4月8日、ニュー・サウスウェールズ州テンターフィールド(Tenterfield)にて、アリス・エミリー・ウォーカー(Alice Emily Walker)という女性と結婚〔''Bajo Paterson- His Life'', Tenterfield Tourism〕。二子をもうけた。
パターソンは『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙(en)および『ジ・エイジ』紙の従軍記者となり、1899年10月に第二次ボーア戦争中の南アフリカに赴く。キンバリーの包囲戦、ブルームフォンテーンの降伏(これに関しては一番乗りを果たした)、プレトリアの占領を取材し、その写実的な報道によりイギリス本国の新聞に注目された〔。義和団の乱も取材した。
第一次大戦でも従軍記者としてベルギーに行きたがったが、果たせず、代わりにフランス北端のウィメルー(Wimereux)でオーストラリア義勇医師団の救急者運転手として働いた。1915年初めに帰国。その後はアフリカ、中国、エジプトを旅行したり義勇軍の士官を務めるなどした。
1941年2月5日、心不全のためシドニーで死亡。76歳であった。彼の墓は妻アリスの墓と並んで、シドニーの北区記念霊園にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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