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バレンシア王国 : ミニ英和和英辞書
バレンシア王国[ばれんしあおうこく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王国 : [おうこく]
 【名詞】 1. kingdom 2. monarchy 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

バレンシア王国 : ウィキペディア日本語版
バレンシア王国[ばれんしあおうこく]

バレンシア王国(バレンシアおうこく、バレンシア語: )は、イベリア半島東海岸にかつてあった王国で、アラゴン連合王国を構成する国の一つ。
バレンシア王国は、イスラム教徒のタイファとして成立したが、レコンキスタにより1237年キリスト教のアラゴン連合王国に占領された。カトリック両王の結婚によりアラゴンとカスティーリャ王国が同君連合となり、その後スペイン王国が成立すると、バレンシア王国はスペインの構成国家となった。
存在している間バレンシア王国は、アラゴン、そしてスペインから与えられた広い自治権を有する憲章の上で、独自法と自治機関を持ち、統治されていた。スペイン継承戦争でバレンシアが敗北したために、フェリペ5世新国家基本法 (en) を1707年に布告し、バレンシアから全ての自治と特権を奪った。
境界線、そして現在のスペインの自治州であるバレンシア州の同一性は、基本的にかつてのバレンシア王国に基づいている。
== 歴史 ==

=== レコンキスタ ===

後でバレンシア王国となる地方の征服は、アラゴン王ジャウマ1世がアラゴン軍を大部分率い、モレリャを獲得した1232年に始まった。そのすぐ後の1233年、ブリアナ、ペニスコラがタイファであるバランシヤ(Balansiya、アラビア語でバレンシアを意味する)から奪われた。
ハイメ1世がバランシヤのタイファを破った1237年、第2の拡大の波は起きた。彼は1237年10月9日にバレンシアへ入城した。これがバレンシア王国の夜明けだと考えられている。
第3段階は1243年に始まり1245年に終わり、ジャウマ1世と、カスティーリャ王位継承予定者である王子アルフォンソ(1252年にアルフォンソ10世として即位)との間で国境が確定された。これらの国境は、カスティーリャ=アラゴン間のアルミスラ条約によって引かれた。この条約は、彼らの影響が与えられる望ましい地域を確立することで、南方へムーア人勢力を押しだすレコンキスタの尽力を調整することになった。アルミスラ条約は、現在のアリカンテ県北部にビアル=ブソト線をつくり、アラゴン王国拡大の南方国境として確立させた。
大多数を占めるムデハル住民問題が、より南の戦線から次第に残っていった。彼らはやがてカトリックに改宗させられモリスコと呼ばれるが、最終的に1609年に一団となって追放されるまで(モリスコ追放)、征服過程の非常に初期からとどまっていた。追放されるまで、彼らは新設された王国の複雑な問題を表していた。モリスコはその人数の多さから経済活動に本質的に欠かせない存在であり、しばしばムハンマド・アブー・アブダラ・ベン・フザイル・アル・サフイール (en) のような地元イスラム教徒との協定を励起した。彼はキリスト教君主から、モリスコ文化に様々な寛容の程度を与えることを許されていた。しかし一方で、彼らはキリスト教君主に対する忠誠に欠け、モリスコ救援のためにオスマン帝国を連れてくるという実際または想像上の共謀をしているとみなされていた。
キリスト教徒支配に対しイスラム教徒側からの反抗がしばしば起きた。最も恐れられたのはムーア人首領ムハンマド・アブー・アブダラ・ベン・フザイル・アル・サフイール(アル=アスラクとも)による反乱だった。1244年、1248年、1276年に彼は重要な反乱を率いた。これらの反乱初期には、彼は事実上フカル川南部の土地をイスラムの独立国家として獲得した。しかし、彼はすぐに降伏させられた。二度目の反乱では、ハイメ1世はもう少しで戦闘で死ぬところであった。しかしアル=アスラクも最終的には捕らわれ、彼の生命はこれまでのキリスト教君主との長期関係を理由に助命された。三度目の反乱では、アル=アスラク自身が殺害されたが彼の息子がイスラム教徒の社会的不安を助長し続け、地元イスラム反乱は常に視界の中に残り続けた。
1283年、ペドロ3世は、バレンシアに海事商務館(en、アラゴン王国の準司法組織で、海事・商法を処理するためにその後地中海沿岸都市に広まった)を設置した。これはスペイン初のことだった。
ジャウマ1世の孫であるジャウマ2世は、ビアル=ブソト協定よりさらに自軍を南進させる最終攻撃を、1296年に始めた。彼の遠征はムルシアとベガ・バハ・デル・セグラ周辺の肥沃な田園地帯に向けられた。その地域は、地元のイスラム教徒支配者がカスティーリャとの協定によって縛られ、王国の代理人として治めていた。カスティーリャ軍は、どんな場合も定まっていなかった王権を主張するためにしばしば一帯を略奪した。カスティーリャ軍の略奪は、軍事境界線上の小競り合いそして常に変化する同盟関係で特徴づけられていた。
ジャウマ2世指揮下の遠征は、以前カスティーリャと合意した境界の南部となる、バレンシア王国の範囲を拡張するという点で成功した。ジャウマ2世軍はオリウエラとムルシアを獲得した。カスティーリャ=アラゴン間の有限の国境となるはずだったものは、最終的に1304年のトーレリャス条約 (''Sentencia Arbitral de Torrellas'') で合意され、1305年のエルチェ条約によって修正された。エルチェ条約ではムルシアがカスティーリャへ渡され、オリウエラ、アリカンテ、エルチェがバレンシア王国へ渡った。これでバレンシア王国南部の国境線が確定した。
 
キリスト教国による征服過程で、バランシヤ、アルプエンテ、デニア、ムルシアの4つのタイファが征服された。当時の標準を考慮すると、ほとんどの領域が開始から50年未満で獲得され、最大の領土拡張が1世紀未満で完了したので、やや迅速な征服とみなすことができる。この速い過程で支払われることになっていた、社会的・政治的な不安の代価は、王国内に多くいるイスラム教徒人口の存在だった。彼らはキリスト教国の一部になることを望まず、彼らはイスラム教徒である限り、機会も与えられなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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