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バハードゥル・シャー1世 : ミニ英和和英辞書
バハードゥル・シャー1世[ばはーどぅるしゃー1せい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

バハードゥル・シャー1世 : ウィキペディア日本語版
バハードゥル・シャー1世[ばはーどぅるしゃー1せい]

バハードゥル・シャー1世ウルドゥー語:بہادر شاه اول, Bahadur Shah I, 1643年10月14日 - 1712年2月17日)は、北インドムガル帝国の第7代君主(在位:1707年 - 1712年)。シャー・アーラム(Shah Alam)あるいはシャー・アーラム1世(Shah Alam I)としても知られる。第6代君主アウラングゼーブの次男で、母はナワーブ・バーイー
父の死後、バハードゥル・シャー1世は2人の兄弟アーザムカーム・バフシュを討ち、帝位を確固たるものとした。
だが、父の治世における反動があらわれはじめ、マラーターラージプートジャートシク教徒など異教徒の離間もあり、これらに対する戦闘は帝国に巨額の出費をもたらした。また、ジャーギールを与えすぎたことも、結果として財政の悪化につながった。
1712年、バハードゥル・シャー1世は死亡し、その死後には4人の息子らによる帝位継承戦争があった。
== 生涯 ==

=== 即位以前 ===

1643年10月14日、バハードゥル・シャー1世ことムアッザムは、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブとその妃ナワーブ・バーイーとの間に生まれた〔Delhi 7 〕〔Delhi 9 〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.247〕。
父アウラングゼーブは皇帝に即位すると、ムガル帝国の宗教寛容政策を捨て、異教徒を弾圧するようになった。だが、ムアッザムはそれに反対するなど、父とは違う一面を持っていた。
1661年7月デカン総督のジャイ・シングアンベール王国の君主でもある)が死ぬと、ムアッザムはその後任としてデカンへ赴いた。
ムアッザムがデカンのアウランガーバードに着くと、当時アウラングゼーブと対立していたマラーターの指導者シヴァージーは、10月に息子サンバージーを使者として送った。同月にサンバージーがアウランガーバードに到着すると、ムアッザムはサンバージーを歓迎し、彼らはとても親しい関係となり、講和条約を締結することをなった。
だが、父帝アウラングゼーブは、ムアッザムがマラーターと親密になったことを嫌い、彼はアフガニスタンの総督として左遷された。
しかし、ムアッザムはアフガニスタンに派遣されたのち、父と対立していたパンジャーブシク教の教主グル・ゴーヴィンド・シングとは講和にはいたらなかったものの、一定の友好関係にあった。
1681年9月以降、父帝アウラングゼーブはデカンに遠征し(デカン戦争)、デカン諸国を一連の戦闘で破り、サンバージーも1689年3月に殺され、その没年までに帝国の領土を最大にした〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.242〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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