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ハンナ・リデル : ウィキペディア日本語版
ハンナ・リデル
ハンナ・リデル'、1855年10月17日 - 1932年2月3日)は、イギリス宣教師で、1895年熊本に熊本初のハンセン病病院、回春病院を作っただけでなく、日本のハンセン病の歴史に大きな影響を与えた。後継者はエダ・ハンナ・ライトである(彼女については当該記事に記載する)。エダによるとイギリスでのRiddellの発音はリデールであるが、文献等ではリデルが多いのでここではリデルを使う〔森幹郎『ハンセン病史上のキリスト者たち 足跡は消えても』p.52〕。1855年10月17日 - 1932年2月3日)は、イギリス宣教師で、1895年熊本に熊本初のハンセン病病院、回春病院を作っただけでなく、日本のハンセン病の歴史に大きな影響を与えた。後継者はエダ・ハンナ・ライトである(彼女については当該記事に記載する)。エダによるとイギリスでのRiddellの発音はリデールであるが、文献等ではリデルが多いのでここではリデルを使う〔森幹郎『ハンセン病史上のキリスト者たち 足跡は消えても』p.52〕。
== 略歴 ==
1855年、ロンドン北方郊外バーネットに生まれた。生下時、父親(Daniel Riddell)は43歳、母親(Hannah Wright, 旧姓はHunt)は41歳、再婚同志で両方とも子持ちであった。

労働者階級の出身である。母親の連れ子がエダ・ハンナ・ライトの父親である〔猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』p.23〕。リデルの父親は以前インドなどにも派遣された軍曹であったが、慢性肝炎を患い一時除隊した。しかし生活には年金だけでは不足で、補充兵の教育を開始した。リデルはその兵舎または宿舎(バラック)で生まれた。1877年、南ウェールズのザ・マンブルズに引っ越し、母親と共に、小規模の女子用の私立学校を経営した〔ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp.11-21〕。20歳そこそこの少女が全科目を教えている。リデルの教育の記録は現在見当たらないが、当時の状況から考えると堅実な教育をうけていたと思われる〔猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』pp.60-61〕。一時は学校経営はうまくいっていた。母は1886年に亡くなった。学校に競争相手がでて、父が他界したと同時に1889年、破産した。生活を立て直そうと英国聖公会宣教協会(CMS ,Church Missionary Society、1799年創立の英国国教教会の組織)に入り、リバプールのYWCA協会の婦人校長をつとめた。35歳の時、日本に伝道に派遣された。その時派遣されたのは女性宣教師5名であり、リデルがその最年長であった。宣教師グレース・ノットと共に熊本に落ち着いた。彼女とは同志的な友情で結ばれた〔 グレース・ノット - (Grace Nott)リデルと同じ船できた小柄な、リデルより9歳年下のイギリス人宣教師である。共に熊本に派遣された。ノットはリデルと親しく回春病院設立には同志として協力した。ジュリア・ボイドの著書の英文版、邦文版の両方に4枚の写真が掲載されているが集合写真では大柄のリデルの向かって右に写っている。リデルは英語会話を教えたが、グレースはドイツ語会話を教えた。1900年、CMSと対立、リデル同様離れることになった。しかしその後も回春病院へ協力、1906年讃美歌に合わせて弾琴したとある。〕〔猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』p.174〕。リデルは1891年に熊本市郊外の本妙寺でハンセン病患者をみて患者救護の決心をする。その年の12月協会本部にハンセン病の患者を見たと手紙に書いた。
彼女は新しい組織をつくることに興味があった。また、権力のある人に近づくという本能的才能があった〔前者に関しては回春病院や、日本初のハンセン病研究所の設立や、警監之友の発行がある。リデルを本部のCMSから日本のCMSに紹介する文章で「当人の話だと組織作りが最も得意だそうです」とある。ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp26 line6なお英文の方はCMSのFennの手紙で、The works she likes best, she says, is that of "organizing".とありま。Boyd Julia ''Hannah Riddell'' pp26〕〔後者に関しては、「ハンナは終生、有力者の知遇を得るという才能に恵まれた」と書かれている。All her life, Hannah displayed an instinct for getting to know people of influence. とあります。Boyd Julia ''Hannah Riddell'' pp23〕〔ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp.22 line 8〕。教会によりハンセン病病院を作らせようと、力量を発揮した。経過は簡単にはいかなかったが、1895年11月12日に回春病院が完成した。しかし、色々の交渉の経緯において、組織のトップと交渉するので、中間管理職的な〔ブランドラムのこと。CMSでのリデルの先輩で既に日本での布教は7年となっていた。リデルやノットとの行き来も頻繁であった。〕ジョン・ブランドラム主教〔ジョン ブランドラム - (John Brandrum) ケンブリッジ出身でリデルを迎えた先輩の在住司祭。リデルの3歳年下である。当時新婚1年目であるが妻も宣教師であった。リデルやノットに熊本の説明をしたので本妙寺についても説明したと思われる。リデルのハンセン病病院の考えに協力して、回春病院落成式にはリデルと並んで写真に写っている。〕は、リデルとの仲が悪化し、1897年から精神状態がおかしくなり、療養のため、香港行きの船に乗ったが、1900年12月29日船上で亡くなった。リデルは当時はイギリスにいた〔ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』(ページはあちらこちらに亘る)〕。
リデルと対立しているヘンリー・エヴィントン主教ははっきりブランドラムの精神錯乱はリデルのせいであると書いている〔ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.113,130〕。リデルは教会組織にたくさん敵を作ったので、教会から離れて回春病院を経営せざるを得なかった。しかし離れたことが、自由な寄付を可能にした。日露戦争のため、寄付金を送っていたイギリス人は、送金に障害がでると考え、寄付が止まった〔1905年11月14日九州日日新聞社説によると日露戦争の結果、イギリスよりの寄付金も送金する汽船獲得の恐れがあるために、その送金を見合わせた。本邦人の寄付は益々減少し、ついに回春病院は今日3000円の負債を生じるに至ったとある。〕。大隈重信は以前から 回春病院の園内美化のために桜、楓を寄付した。リデルの経済危機に際し、全国的ならい問題を訴えた方が効果的であると忠告した。また、渋沢栄一は- 代表的な実業家であり、ハンセン病に積極的に関心を持った。リデルが最初に来た時は僅かではあるが1万5600円の金を寄付したと書いている〔猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』p.196(なお元の文献は「渋沢栄一伝記資料24巻」)〕。大隈重信の相談にのり、銀行会館で全国的ならいの会議を開いた。経済的危機に陥った時リデルを経済的に助けようと1905年に銀行会館で、有識者の会議があり〔山本俊一 『日本らい史』東京大学出版会 ISBN 4-13-0066401-8 「リデルの活躍」 p.51〕、同時に日本のハンセン病問題が討議された。公的なハンセン病対策が開始されたが、リデルは公的にも補助を受け、経済的にも一息ついた。この会議を機会にリデルはひのき舞台に上がったのである〔ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.155〕。回春病院を非営利の団体と認められ、非課税となった。
リデルは衣装も着飾り、上京すれば帝国ホテルに宿泊し、有力者とここで会合をし、夏は軽井沢避暑をする。リデル自身貴族らしい生活を送ることが病院を支える資力をもった人間に対等に扱ってもらえる唯一の道だと確信していた〔ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.185〕。募金活動のために、多くの講演もこなし一日2回に及ぶこともあった。日本におけるハンセン病政策にも影響を与える。実業家、政治家、皇族にも会えるようになる。ハンセン病の権威である光田健輔のハンセン病隔離政策にたいして、リデルはキリスト教に基づいた主張をした。彼女は性的なことには潔癖で、男女は仲良くならないという政策を主張した。英文でいえばSex segregationという。リデルは、回春病院内では療養者に対して徹底した禁欲を強制し、男女が言葉を交わすのも禁じ、挙句の果ては療養者が雌雄のカナリアを同じ籠で飼うことさえ禁止した。沖縄の患者への助力を考え患者でクリスチャン青木恵哉を派遣した。リデルが大病した時は当時の医長である神宮良一も診察したが、ライトが心配して神戸から外人医師を招いた。巨躯であったので、歩行困難をきたし、ある人はハンセン病を疑った。光田健輔によると、回春病院医師の三宅俊輔からハンセン病は誤伝と聞いたと記録し、彼女にリウマチスがあったと書いている〔内田守編集『ユーカリの実るを待ちて』p.1113〕。ハンセン病九州療養所長の河村正之は、熊本県庁における天皇拝謁に際し、長い廊下をリデルは河村の肩を杖として歩いたという。しかしリデルは天皇の前に出た途端、練習していたお時儀の仕方を忘れてしまい、膝が痛いのに、西洋婦人式のお時儀をしていた。1932年2月3日午後1時10分、リデルは逝去し、翌日盛大な葬儀が営まれた〔ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.205〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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