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ハインリヒ・イザーク : ミニ英和和英辞書
ハインリヒ・イザーク[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ハインリヒ・イザーク : ウィキペディア日本語版
ハインリヒ・イザーク[ちょうおん]

ハインリヒ・イザークHeinrich Isaac 1450年頃 - 1517年3月26日)は盛期ルネサンス音楽フランドル楽派作曲家ジョスカンと同世代の作曲家の中では最も重要と看做されている。
イザークの生い立ちについて詳細は不明だが、おそらくフランドルの出身。1470年代までには作曲していたことが分かっており、イザークに関する最初の文書は1484年にさかのぼる。同年イザークはインスブルックの宮廷作曲家だった。翌年、フィレンツェロレンツォ・デ・メディチの宮廷音楽家となり、オルガン奏者、宮廷楽長ならびにロレンツォの子供たちの家庭教師をつとめた。1497年までにイザークは、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世に仕官し、主君に同行してドイツ各地を歴訪、当時のドイツの作曲界に多大な影響を及ぼしたと見なされている。1514年フィレンツェに戻り、同地で他界した。
イザークは幅広い変化にとんだ楽曲をのこしており、ミサ曲モテットドイツ語歌曲、イタリア語歌曲、器楽曲などがある。当時の最も多作な作曲家のひとりだが、永年にわたるジョスカンへの好評からその陰に隠れてきたきらいがある(ちなみにアントン・ヴェーベルンはイザークに関する論文で学位を取得している)。
彼の最も有名な作品は、おそらくドイツ・リートインスブルックよさらば ''Innsbruck, ich muß dich lassen'' 》であろう。この曲は、しかしながら旋律そのものはイザークの創作ではなく、単なる(民謡の)編曲だったのかもしれない。この旋律は後にルター派コラール《おお世よ、われ汝より離れざるを得ず ''O Welt, ich muß dich lassen'' 》にも流用され、バッハ作品やブラームスオルガン曲の基礎となった。
イザークは《コラリス・コンスタンティヌス(コンスタンツ大聖堂の合唱曲)''Choralis Constantinus'' 》を未完成のままで遺した。これはミサ固有式文の通年分を完全に作曲(多声化)する最初の試みとして知られ、およそ100曲が含まれている。イザークの門弟ルートヴィヒ・ゼンフルがこの曲集を完成させたが、その死後1555年になるまで出版されなかった。イザークはミサ通常文によっても40曲あまりを遺した。
==Media==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハインリヒ・イザーク」の詳細全文を読む




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