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ノルマン人による南イタリア征服 : ミニ英和和英辞書
ノルマン人による南イタリア征服[のるまんじんによるみなみいたりあせいふく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ノルマン人 : [のるまんじん]
 【名詞】 1. Norman 2. the Normans
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1
: [みなみ]
  1. (n,vs) South 2. proceeding south 
征服 : [せいふく]
  1. (n,vs) conquest 2. subjugation 3. overcoming 
: [ふく]
  1. (n,n-suf) clothes 

ノルマン人による南イタリア征服 : ウィキペディア日本語版
ノルマン人による南イタリア征服[のるまんじんによるみなみいたりあせいふく]

ノルマン人による南イタリア征服は、さまざまな勢力が割拠していた南イタリアノルマン人の活動によって統一されていったことを指す。
その過程はノルマン人傭兵が南イタリアで働き始めた11世紀前半から、12世紀前半に至る百年近い期間に及び、そこには多くの戦闘と、おのおの独立した複数のノルマン人勢力による幾多の領地獲得活動が含まれていた。11世紀にノルマン人有力君主たちがそれぞれに獲得した領地は、1127年のアプーリア公位継承を皮切りに次々とシチリア伯ルッジェーロ2世の掌握するところとなり、シチリア王位に就いたルッジェーロ2世によってイタリア半島南部の平定が完了したのは1140年のことであった。その領域はシチリア島のみならず、ベネヴェント(一時的に占領したことが二度あったが、11世紀半ばには教皇領となった)を除いたイタリア半島の三分の一に及ぶ南部全土、マルタ諸島や北アフリカの一部にまで及んでいた。
この時期に南イタリアで活動したノルマン人たちは元はノルマンディー公国の住民であり、新天地を求めて故国を離れ、山賊や傭兵となった者たちであった〔高山博 『中世シチリア王国』 講談社、1999年、46頁。〕。かれらノルマン人移住民は、メッツォジョールノの地でランゴバルド系東ローマ系といった様々な政治勢力の君主や有力貴族に仕える傭兵となり、同地に定住する機会があることをすぐに故郷に報せた。これらノルマン人戦士集団は各地で同郷の戦士を集めて徒党を組み、ついには自分たちの封地や国家を建国するに至った。ノルマン人たちはメッツォジョールノに到着して50年以内に、それぞれに一団となって頭角を現し、事実上独立した地位に成り上がることに成功したというわけなのである。
1066年一つの決定的な戦いから数年後に達成されたノルマン人によるイングランド征服とは異なり、ノルマン人による南イタリア征服は何十年間にも及ぶ年月と多くの戦闘の産物であり、決定的な出来事をほとんど欠いていた。多くの土地がそれぞれ別個に獲得ないし征服され、これらが後年に一つの国家としてまとまったのである。イングランド征服と比較すると、南イタリア征服のほうは全体として見れば非計画的かつ非組織的な活動の積み重ねであり、文字通りの征服とは呼べない部分もあったものの、最終的には同じように全面的な征服として完了した。
== 歴史 ==

=== ノルマン人の南イタリア到来、999年–1017年 ===

ノルマン人が南イタリアを訪れるようになった年代は明らかでないが、10世紀末よりヨーロッパでは聖地巡礼が盛んになり、ノルマン人の間でもエルサレムやイタリアのに詣でる者がいたと想定される。南イタリアでのノルマン人の働きに関して後の年代記に記録された最も古い事例は、1010年代までに起こったであろう二つの出来事である(後述のサレルノ伝承とガルガーノ伝承)。それらのエピソードから窺知されるのは、地中海地方で傭兵の募集があるという話が巡礼者を通じて広まり、これがノルマン人戦士を南イタリアに向かわせるきっかけの一つとなったということである〔高山博 『中世シチリア王国』 講談社、1999年、46-49頁。〕。
いくつかの史料によれば、999年頃、聖地エルサレムからプッリャ経由で帰還の途次にあったノルマン人巡礼者の一団がサレルノに立ち寄り、サレルノ公(侯)の許に逗留したという。折しもサレルノの町とその周辺地域は、遅延している年一回の貢納の支払いを要求するサラセン人の攻撃を受けていた。グアイマーリオ3世は貢納金を集めようと仕掛けたが、その間にノルマン人たちは公とそのランゴバルド人臣民たちの弱腰を難じ、直ちに包囲するサラセン軍を襲撃した。これによりサラセン人は敗走し、多くの戦利品が得られた。これに感謝したグアイマーリオなる者、宴を開いてノルマン人たちを歓待し、かれらにこの地に残って働いてくれるよう懇願する。ノルマン人はこれを断ったものの、グアイマーリオ3世からの豪華な贈り物をノルマンディーにいる同胞に送り、サレルノで兵として働けば褒賞を得られるかもしれないという話を同胞に広めることを請け合った。いくつかの史料では、それだけでなく、グアイマーリオ3世は戦士を獲得するためにノルマンディーに使者を派遣したとまで伝える。ノルマン人の到来に関するこの話は「サレルノ伝承」と呼ばれることがある〔Joranson, 355 and n 19.〕。
この「サレルノ伝承」が初めて記録されたのは、1071年から1086年までの間にによって執筆された『ノルマン人の歴史』 である。12世紀初頭にによって執筆された『モンテ・カッシーノ年代記』の、の手による続編では、「サレルノ伝承」に関する情報のほとんどがアマートの著作から借用されている。17世紀カエサル・バロニウスの著作であるを発端として、サレルノ伝承は歴史として認められるようになった〔Joranson, 356.〕。サレルノ伝承が正確に事実を伝えているか否かという問題は、その後の何世紀にも亘って時折呈されてきた疑問であったが、以降のほとんどの学者は、この伝承に何らかの修正を加えた形で史実として承認するようになっている〔シャランドンもノーウィッチも、サレルノ伝承とガルガーノ伝承に基づき、両者を連結させた一つの物語を供している。Houben, p 8 はサレルノ伝承を事実として提示している。〕。
イタリアでの最初のノルマン人到来に関するもう一つの歴史上の記録も、それまでのノルマン人の存在には一切ふれることなく主要な年代記の中に記されている。この話は「ガルガーノ伝承」と呼ばれている〔。モンテ・ガルガーノ(モンテ・サンタンジェロの)に向かうノルマン人巡礼者一行は、そこでランゴバルド貴族であると出会い、アプーリアのビザンツ総督攻撃に加わるよう説得されている。これは1016年のことである。
「サレルノ伝承」と同様、ガルガーノ物語についても2つの一次史料がある。一つは1088年から1110年にかけてによって記された『ロベルト・ヴィスカルディ武勲詩』であり、もう一つはこれより一世紀後にアレッサンドロという名の修道士がグリエルモの著作を基に執筆した『聖バルトロマイ・デ・カルピネート修道院年代記』である〔Joranson, 358.〕。サレルノとガルガーノ物語とを結びつけて考える学者もおり、はバーリのメロとノルマン人との邂逅の話はそれ以前にグアイマーリオによってお膳立てされたものだったのではないかとさえ仮定している〔シャランドンも同じような仕方でこの二つの伝承を結びつけている。Joranson, p367 は、かかる仮説が「役に立たない」ことを明らかにしている。〕。バーリのメロは、東ローマ帝国領から追放されてからモンテ・ガルガーノを訪れるまでの間に、サレルノに滞在していたことがあったとされているのである。
それ以外には、自ら進んで亡命してきた出身の兄弟からなるグループの話が含まれる。その兄弟の一人である(オーデリック・ヴァイタリスによる)ないしジルベール(アマートと助祭ピエールによる)が、ノルマンディーロベール1世の統治時代にギョーム・レポステルなる人物を殺害した。伝えられるところでは、レポステルはジルベールの娘を辱めたことを吹聴したことにより殺害されたという。レポステル殺害によって安全が脅かされることとなったドレンゴト兄弟は、一族を引き連れて祖国を脱出してローマに逃れているが、兄弟の一人はバーリのメロと合流する前にローマ教皇に謁見している。アマートは一連の物語を1027年以降のこととしているが、教皇に謁見したことに関する記述はない。アマートによるとジルベールの兄弟にはオスモンド、、および(ピエールによればLudolfusではなくRudolfus)がいた。
レポステルの殺害に関しては、ロベール1世の統治下すなわち1027年以降のこととされている点ですべての年代記は一致しているものの、ロベールという記述は間違いであり、本来はリシャール、すなわち1017年に公となったのことではないかと信じる者もいる〔Joranson, 369.〕。第一次のノルマン人移住がドレンゴト家とレポステルの殺害に何らかの関係があると仮定するならば、その年代はもっと古いものに書き換えねばならない。による『歴史』は、「ルドルフス」なる人物がリシャール伯(すなわちリシャール2世)の不興を買った末にノルマンディーを去ったとする〔Joranson, 371.〕。兄弟の中で指導者として南イタリアに赴いた者の名は資料によって異なる。オーデリックおよびの著作『』はオスモンドとし、グラベールはルドルフとする。レオーネ、アマートおよびはジルベールとする。南イタリアの資料の大半は、1018年のでノルマン軍団を指揮したのはジルベールであったとする〔Chalandon, 52. Norwich.〕。 仮にこのルドルフがアマートの歴史に出てくるドレンゴト家のルドルフと同一人物であったとするならば、ルドルフがカンネーの戦いの指揮官であったということになる〔Joranson, 371, disputes the identification of the two Rudolfs.〕。
ノルマン人のメッツォジョールノへの到来についてのもう一つの仮説 - 近代の仮説 - は、グラベール、アデマールおよびレオーネ(ピエールによる続編に非ず)の年代記に関するものである。この3つの年代記はすべて、リシャール2世の怒りから逃れたルドルフに率いられた40名もしくはそれより大幅に多い約250名のノルマン人がローマの教皇ベネディクトゥス8世のもとに赴いたと述べている。当時教皇は自らが宗主権を有するベネヴェントがビザンツの侵略を受けて憤激していたことから、東ローマに対抗する傭兵を募集しているサレルノないしカープアに彼らを向かわせた。同地にてノルマン人たちはベネヴェントの指導者であるベネヴェント公とカープア公に会ったが、前述のサレルノ侯グアイマーリオ3世とバーリのメロと会った可能性もある。レオーネの年代記を基にするとルドルフは、トスニのラルフと同一人物であると推定される〔Joranson, 373. レオーネは“ルドルフス・トディネンシス”と呼んでいる。〕。
1017年5月での対東ローマ戦においてバーリのメロに雇われた傭兵たちを、南イタリアでノルマン人の軍事活動が初めて確認された事例に含めるとするならば、そのノルマン人たちは1月から4月の間にノルマンディーを発ったことになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ノルマン人による南イタリア征服」の詳細全文を読む




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