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ニューネーデルランド : ミニ英和和英辞書
ニューネーデルランド[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ニューネーデルランド ( リダイレクト:ニューネーデルラント ) : ウィキペディア日本語版
ニューネーデルラント[らん]

ニューネーデルラントオランダ語:''Nieuw-Nederland''、ラテン語:''Novum Belgium''または''Nova Belgica''、英語:''New Netherland''、1614年 - 1674年)は、17世紀に北アメリカの東海岸にオランダが建設した植民地である。範囲は北緯38度から45度におよび、元々1609年オランダ東インド会社のヨット「ハーフ・ムーン」号でヘンリー・ハドソンが発見し、アドリアン・ブロックとヘンドリック・クリスチャンズが1611年から1614年にかけて探検した所である。オランダ議会に提出された1614年製の地図で当時のネーデルラント連邦共和国の新領土、ニューネーデルラントの領有が宣言された。
オランダ議会によって発行された勅許により私有商業的企業体として、ニューネーデルラントは1624年にオランダ共和国の植民地となった。同時に、ケープ・コッドより北へのイギリスによる侵入は避けられないと認識し、北の境界は北緯42度線まで下げられた。
国際法によって領土の領有権主張は単に発見や地図を作ったということだけでなく、入植も必要とされた。1624年5月、オランダはノーテン・アイラント、今日のガバナーズ・アイランドに30家族を上陸させ、国際法の要求を満たした。

== 歴史 ==

=== 探検 ===
最初の1614年植民地宣言は、1609年のヘンリー・ハドソン船長によるオランダ東インド会社のヨット「ハーフ・ムーン」号を使った探検航海の結果としてなされたものだった。これは、オランダとスペインの間の12年間におよぶ休戦期間(1609年4月9日-1621)の最初の年であった。この期間、単独で武装しないオランダ船でもスペインという敵国からは攻撃されない状態になっていた。この休戦でハーフ・ムーンが大西洋を越えて航海することが可能になった。ハドソンが上司に提出した報告書によると、マウリチウス川で遭遇した先住民族と小規模ながら毛皮との物々交換を行ったとある。マウリチウス川の名前は、オラニエ=ナッサウ家の貴族で、スペインに対する八十年戦争を指導したオランダ総督マウリッツに因んで名付けられた。
1621年の休戦終了とともに、オランダ西インド会社(1621-1793)がオランダ議会より勅許状を受けて設立された。それは1606年に作られた概念勅許よりも全大西洋を包含する広大な目的を持ったものだった。1621年でもなお、会社の精神的創始者ウィレム・ウッセリンクの狭い目的を包含していた。ウッセリンクは1600年から1606年の間に、新世界における植民地を創設する際に牽引力となる会社の骨格を作り上げた。1620年、ウッセリンクはその主要な考え方を拒否した議会に対して最後の訴えを行った。その結果、大西洋という広大な舞台で軍事目的と利益追求という会社の重要な目的に続いて、植民地建設が第3番目の地位を得ることになった。かくしてニューネーデルラントは議会の継子となるように運命づけられ、1630年ポルトガルから力で奪ったオランダ領ブラジル1654年に明け渡すまでこの状態が続いた。オランダは、世界で一番砂糖を生産できていたブラジルを失って、遅ればせながら北アメリカにおけるニューネーデルラントの国家建設に集中することになった。
ヘンリー・ハドソンが1609年に新しい貿易資源について書いた報告書の通りに開発できる見込は、ハドソンが発見した川沿いを探検する危険性を考えるオランダ人個人貿易業者にとって触媒となっていた。1610年にモニケンダムのサイメン・ランベルツ・マイが、マウリチウス川を遡って商業遠征を行ったことだけが知られていた。次の1611年と1612年、更に1613年と1614年に、アドリアン・ブロック、ヘンドリック・クリスチャンズおよびコーネリス・ジャコブズ・マイがハドソン川の商業遠征を行い、ケープ・コッドからデラゥエア湾まで海岸線と河口を調べて地図を作った。
これら探検家の何人かは今日の地名に名を残している。例えばブロックはブロック・アイランドに、マイはニュージャージー州ケープメーに、またその共同経営者タイメン・ジャコブズ・ヒンローペンはデラウェア州ケープ・ヘンローペンといった具合である。しかし、クリスチャンズの名前を貰ったヘンドリック・クリスチャンズ・アイランドはノーマン・アイランドと名前を変えられた。
これらの1609年から1614年の探検、測量および地図化の結果はアドリアン・ブロックによって1枚の地図にまとめられ、1614年に議会に提出された。この地図ではニューネーデルラントを初めてこの名前で呼び、ハドソン川流域で競合する貿易会社にも配布された。これらの会社はニューネーデルラント会社という名前の新しい会社に統合された。
1614年3月17日、議会は北緯40度から45度の間で排他的な交易を許可し、新しい国、港および経路の発見者には4航海分有効であるという布告を出した。これに対する反応として地図と詳細な報告書が提出された。航海は他の全てのオランダ商人を排除した貿易特許〔(Charter)〕を与えた後、3年以内になされるべきとされた。ニューネーデルラント会社が1614年10月11日に特許を獲得し、1618年1月1日までとされた。
ニューネーデルラント会社は1614年、1615年および1616年にモニケンダムの船長コーネリス・ヘンドリックスに命じてデラウェア地域を測量させた。しかし、北緯38度から40度の間は議会による排他的な特許を得ることができなかった。ブロックが1614年に本国に帰還するとき、コーネリス・ヘンドリックスが現地に留まり、北アメリカで建造した船「オンラスト」号、すなわち「トラブル」号の船長に指名された。「トラブル」は、ブロックのヨット「タイガー」号が1614年1月に火事で焼失した時、マンハッタンの近辺で代替船として造られた。アドリアン・ブロックはこの後ニューネーデルラントに戻らなかった。コーネリス・ヘンドリックスが行ったズイド川(デラウェア川)の探検はかなり上流から河口の湾までを含んでおり、その記録が1616年の地図に残された。
北アメリカにおける植民地建設の準備のために、西インド会社は1621年、1622年および1623年にニューネーデルラント内で活動するあらゆる私有商業的集団を呼び集め、あらゆる私的な利益追求を無効化し、この地域の唯一の法的手段である海洋法も無効化した。海外植民地としてのニューネーデルラントの移民と成長は、毛皮交易から得られる利益によって一部財政的に裏付けされた。植民地における西インド会社の財政的危険度を最小にするため、毛皮交易は西インド会社の独占とされた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 New Netherland 」があります。




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