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ナモザイン教会の戦い : ミニ英和和英辞書
ナモザイン教会の戦い[たたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

教会 : [きょうかい]
 【名詞】 1. church 
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ナモザイン教会の戦い : ウィキペディア日本語版
ナモザイン教会の戦い[たたかい]

ナモザイン教会の戦い(ナモザインきょうかいのたたかい、)は、南北戦争も最終盤となった1865年4月3日に、バージニア州アメリア郡で起きたアポマトックス方面作戦の戦闘である。ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍が前日4月2日にリッチモンドピーターズバーグ両市を脱出してから、ユリシーズ・グラント中将が全軍指揮する北軍ポトマック軍シェナンドー軍ジェームズ軍)の部隊との最初の戦闘となった。この戦闘で実際に戦ったのは、このときはまだ北軍シェナンドー軍と呼ばれた軍を、独立して指揮していたフィリップ・シェリダン少将の配下、ジョージ・アームストロング・カスター准将(名誉少将)の騎兵師団の旅団、特にウィリアム・ウェルズ大佐(名誉准将)の旅団であり、また南軍はウィリアム・P・ロバーツ准将とルーファス・バリンジャーの後衛騎兵旅団であり、後にブッシュロッド・ジョンソン少将師団から歩兵部隊も加わった。
この戦闘は前日に行われた第三次ピーターズバーグの戦い(ピーターズバーグの突破、あるいはピーターズバーグの陥落とも呼ばれる)の後で、ピーターズバーグとリッチモンドが陥落し、逃亡する南軍(北バージニア軍とリッチモンドの地元防衛軍)に対する北軍による飽くなき追撃の始まりとなった。この戦闘の6日後の1865年4月9日には、アポマトックス・コートハウスの戦い後にリーの北バージニア軍降伏に繋がった。カスター将軍の弟であるトマス・カスターは、この戦闘を含め4日間の勇敢な行動によって、2つの名誉勲章を授与された最初の者となった。
== 背景 ==

=== ピーターズバーグの包囲と突破 ===

292日に及んだリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦(ピーターズバーグ包囲戦)の間、北軍の総司令官ユリシーズ・グラントは塹壕と消耗戦の作戦を遂行するしかなくなった。数的に劣勢な南軍を消耗させ、ピーターズバーグとリッチモンドへの供給源と供給線を破壊または遮断し、防衛線を長くさせることで弱っていく南軍に限界まで守らせるようにすることだった〔Hess, Earl J. ''In the Trenches at Petersburg: Field Fortifications & Confederate Defeat''. Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2009. ISBN 978-0-8078-3282-0. pp. 18–37.〕〔Beringer, Richard E., Herman Hattaway, Archer Jones, and William N. Still, Jr. ''Why the South Lost the Civil War''. Athens: University of Georgia Press, 1986. ISBN 978-0-8203-0815-9. pp. 331–332.〕〔Trudeau, Noah Andre. ''The Last Citadel: Petersburg, Virginia, June 1864–April 1865''. Baton Rouge: Louisiana State University Press, 1991. ISBN 978-0-8071-1861-0. p. 18.〕。1865年2月5日から7日に起きたハッチャーズランの戦いの後、前線はさらに4マイル (6.4 km) 伸び、リーが新しい守備隊を入れた後はもう予備隊がほとんど無かった〔Weigley, Russell F. ''A Great Civil War: A Military and Political History, 1861–1865''. Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press, 2000. ISBN 0-253-33738-0. p. 433.〕。リーはその軍隊でこれ以上防御を維持できないと考え、さらに戦争を継続するためには、その軍隊の一部あるいは全軍がリッチモンドとピーターズバーグを離れ、ダンビルあるいはおそらくリンチバーグで食料や物資を補給し、ノースカロライナ州で北軍ウィリアム・シャーマン少将の軍に対抗しているジョセフ・ジョンストン将軍の軍隊と合流しなければならないことが分かっていた。南軍が即座にシャーマン軍を破れなければ、グラント軍がシャーマン軍の残りと合流できる前に、グラント軍に対抗するために戻って来ることになるはずだった〔Greene, A. Wilson. ''The Final Battles of the Petersburg Campaign: Breaking the Backbone of the Rebellion''. Knoxville: University of Tennessee Press, 2008. ISBN 978-1-57233-610-0. p. 154.〕〔Calkins, Chris. ''The Appomattox Campaign, March 29 – April 9, 1865''. Conshohocken, PA: Combined Books, 1997. ISBN 978-0-938-28954-8. pp. 14, 16.〕〔Hess, 2009, p. 253.〕〔Longacre, Edward G. ''The Cavalry at Appomattox: A Tactical Study of Mounted Operations During the Civil War's Climactic Campaign, March 27 – April 9, 1865''. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books, 2003. ISBN 978-0-8117-0051-1. p. 39.〕。
リーは、1865年3月25日にステッドマン砦とジョーンズ農園で南軍が敗北した後、グラントが直ぐに南軍に残されたピーターズバーグへの供給線であるサウスサイド鉄道とボイドトン板張り道路の方向に動いて来て、恐らくはリッチモンドとピーターズバーグからの退路を遮断することになると理解した〔〔Calkins, 1997, p. 16.〕〔Hattaway, Herman, and Archer Jones. ''How the North Won: A Military History of the Civil War''. Urbana: University of Illinois Press, 1983. ISBN 978-0-252-00918-1. pp. 669–671.〕〔Kagan, Neil, and Stephen G. Hyslop, ''National Geographic Atlas of the Civil War: A Comprehensive Guide to the Tactics and Terrain of Battle.'' Washington, DC: National Geographic, 2008. ISBN 978-1-4262-0347-3. p. 231.〕。
1865年3月28日から29日の夜に始まった北軍の攻勢により、ルイス農園の戦いホワイトオーク道路の戦いディンウィディ・コートハウスの戦いと続き、4月1日のファイブフォークスの戦いと4月2日の第三次ピーターズバーグの戦いによって、グラントの北軍は遂にピーターズバーグの防衛線を突破した〔〔〔Calkins, Chris. ''The Appomattox Campaign, March 29 – April 9, 1865''. Conshohocken, PA: Combined Books, 1997. ISBN 978-0-938-28954-8. pp. 14, 16.〕〔Hess, 2009, p. 253.〕。
フィリップ・シェリダン少将の指揮下にこの時もシェナンドー軍として組織されていた軍は、元々の騎兵軍団にポトマック軍から派遣されたばかりの第5軍団が加わり、総勢は約22,000名になっていた。4月1日、このシェナンドー軍が南軍の前線西端からさらに4マイル (6.4 km) のファイブフォークスで、南軍北バージニア軍からジョージ・ピケット少将の下に派遣された騎兵と歩兵のタスクフォース約1万名を破った〔Woodworth, Steven E., and Kenneth J. Winkle. ''Oxford Atlas of the Civil War''. New York: Oxford University Press, 2004. ISBN 978-0-19-522131-2. p. 302.〕。南軍は約800名の損失を出し、さらには2,400名ないし4,000名を捕虜に取られて失い、戦略的な地点であるファイブフォークスの交差点から、サウスサイド鉄道沿いのフォード駅あるいはフォードの集会所に後退した〔Livermore, Thomas L. "The Generalship of the Appomattox Campaign." In ''The Shenandoah Campaigns of 1862 and 1864 and the Appomattox Campaign of 1865.'' Military History Society of Massachusetts Papers, vol. 6. Boston: The Military History Society of Massachusetts, 1907. . Retrieved December 24, 2010. pp. 489, 503.〕〔Woodworth, 2004, p. 325.〕 。
4月2日の第三次ピーターズバーグの戦いの後、南軍はハッチャーズランの西、ホワイトオーク道路沿いのクレイボーン道路と出会うファイブフォークスの真東で4個旅団が防御線を張った〔Livermore, 1907, p. 487.〕。北軍ポトマック軍のアンドリュー・A・ハンフリーズ少将の指揮する第2軍団がこの南軍部隊を攻撃して、サウスサイド鉄道のサザランド駅にまで後退させた〔Humphreys, Andrew A. ''The Virginia Campaign of 1864 and 1865.'' New York: Charles Scribners' Sons, 1883. . Retrieved December 24, 2010. pp. 354–355.〕。4月2日の戦闘中に戦死したA・P・ヒル中将の後任として軍団長となったヘンリー・ヒース少将がこれら旅団と共に防衛線を組織していたが、ヒースがピーターズバーグに戻った後はジョン・R・コーク准将にその指揮を預けていた〔Salmon, John S. ''The Official Virginia Civil War Battlefield Guide''. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books, 2001. ISBN 978-0-8117-2868-3. p. 471.〕 。
同じく4月2日午後に起きたサザランド駅の戦いで、北軍のネルソン・マイルズ准将の指揮する師団がサウスサイド鉄道の最後の防衛線を突破し、南軍の供給線と退路をも遮断した。急ごしらえで作られた防衛線に対する北軍1個旅団のみの最初の攻撃は、大きな損失を出して撃退された〔。マイルスは2個旅団で南軍の陣地を奪おうとして失敗した後、その日の午後半ばに再度、このときは全軍で南軍を攻撃して圧倒し、南軍左翼を占めていたサミュエル・マクゴワン准将旅団を崩壊させ始めた〔〔Kennedy, Frances H., ed. ''The Civil War Battlefield Guide'' . 2nd ed. Boston: Houghton Mifflin Co., 1998. ISBN 978-0-395-74012-5. p. 423.〕。この南軍の敗北により、最後の供給線であるサウスサイド鉄道が遮断され、ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍はピーターズバーグとリッチモンド両市を棄てて西方に逃げ出さざるを得なくなった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ナモザイン教会の戦い」の詳細全文を読む




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