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トーマス・ブーリン : ミニ英和和英辞書
トーマス・ブーリン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

トーマス・ブーリン ( リダイレクト:トマス・ブーリン ) : ウィキペディア日本語版
トマス・ブーリン[ちょうおん]

トマス・ブーリンThomas Boleyn, 1st Earl of Wiltshire and Ormond, 1477年頃 - 1539年3月13日)は、テューダー朝時代のイングランドの貴族、外交官、廷臣。初代、初代。ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンの父親。
== 生涯 ==
ケント州の城主サーウィリアム・ブーリンの息子として生まれた。母はアイルランド貴族の第7代オーモンド伯爵の娘レディ・マーガレット・バトラーであった。1499年以前に、第2代ノーフォーク公爵トマス・ハワードの娘レディ・エリザベス・ハワードと結婚した。夫妻の間には少なくとも5人の子供があったが、成人したのはメアリー(1499年頃 - 1543年)、アン(1501年頃 - 1536年)、ジョージ(1504年頃 - 1536年)の3人だけである。
1501年に宮廷に伺候し、ラテン語フランス語を使いこなす卓越した言語能力を買われ、外交官となった。1503年、マーガレット王女のスコットランドジェームズ4世への輿入れに随員として参加した 。1509年、ヘンリー8世戴冠式に際してバス勲章を受けた。1511年および1517年にに任じられている。1512年、スペイン領ネーデルラントの女総督マルガレーテ大公女の宮廷に使節として赴いた。この際、自身と同じく語学に堪能な娘アンを大公女の宮廷に侍女として出仕させることを許された。1518年から1521年にかけてフランス駐在大使を務め、1520年6月に行われたヘンリー8世とフランス王フランソワ1世の会見(金襴の陣)を実現させるための交渉を行い、会見にも立ち会った。1521年および1523年、神聖ローマ皇帝カール5世の宮廷に使節として赴いた。1523年、ガーター騎士団騎士に叙任される〔List of the Knights of the Garter (1348–present) 〕。1525年6月16日、ロッチフォード子爵Viscount Rochford)の爵位を与えられた〔.〕〔ヘンリー7世王は、ブーリンの母方の祖父である第7代オーモンド伯爵にイングランド議会への出席権を与えるため、1488年11月にロッチフォード男爵位を創設しており、これに因んだ叙爵である。〕。
1515年、母方の祖父の第7代オーモンド伯爵が男子の無いまま死去すると、伯爵位は相続人不在とされた。ブーリンは母からオーモンド伯爵位の継承権を受け継いでいると主張した。それに対し、オーモンド伯爵家の男系子孫であるサー・も伯爵位の請求者に名乗りを挙げた。この競合の解決策として、ブーリンの娘アンとピアーズ・バトラーの息子と結婚させる案も話し合われたが、婚約は実現しなかった。ところが1526年頃、ヘンリー8世王がブーリンの娘アンに関心を寄せ始めると、爵位をめぐる膠着状態は一変した。ブーリンは1529年12月8日、ウィルトシャー伯爵およびオーモンド伯爵に叙せられた〔.〕〔ウィルトシャー伯爵位は、ブーリンの母方の玄祖父にあたるが薔薇戦争中の1461年に剥奪された爵位。〕。ピアーズ・バトラーは王の圧力を受けて請求を取り下げ、代わりにオソリー伯爵位を受けた。
ブーリンは1529年、ヘンリー8世と王妃キャサリン・オブ・アラゴン婚姻無効(そして王と自分の娘との結婚)を実現させるべく、皇帝カール5世および教皇クレメンス7世に使節として遣わされ、謁見を許されている。1530年には王璽尚書に任命された。娘のアンは1532年、ペンブルック侯爵位を与えられ、翌1533年にヘンリー8世と結婚して王妃となった。しかし1536年、娘アンと息子ジョージは王命により処刑された。ブーリンは子供たちと違って命は奪われなかったものの、王璽尚書の地位を失って宮廷から追放され、失意の晩年を送った〔。さらに1538年1月22日、相続をめぐって競合関係にあったピアーズ・バトラーにオーモンド伯爵位が与えられたことは、ブーリンにさらなる追い打ちをかけた〔。翌1539年のブーリンの死により、二重に存在していたオーモンド伯爵位は正式にバトラー家に帰属した〔Jonathan Hughes, ‘Boleyn, Thomas, earl of Wiltshire and earl of Ormond (1476/7–1539)’, ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, 2004; online edn, Oct 2007.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Thomas Boleyn, 1st Earl of Wiltshire 」があります。




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