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トム・クリーン : ミニ英和和英辞書
トム・クリーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

トム・クリーン : ウィキペディア日本語版
トム・クリーン[ちょうおん]

トム・クリーン(、1877年7月20日 - 1938年7月27日)は、アイルランドケリー州出身の水兵であり南極探検家である。南極探検の英雄時代イギリスが行った遠征4回のうち3回に参加しており、特にロバート・ファルコン・スコットが率いた1911年から1913年のテラノバ遠征では、南極点に向けたロアール・アムンセンとの競争になり、それに敗れたスコットとその隊員全員が帰路に死亡して終わった。この遠征のときに、クリーンはロス棚氷の上を一人で35法定マイル (56 km) 歩き、エドワード・エバンスの命を救った。このことで後にアルバート・メダルを受章することになった。
クリーンは15歳のとき、イギリス海軍に入るためにアナスコール近くにあった一家の農園を離れた。1901年、ニュージーランドでHMS''リンガルーマ''乗組み中に、''ディスカバリー''によるスコットの1901年から1904年イギリス国営南極遠征に志願して参加し、探検の経歴が始まることになった。''テラノバ''での帰還後、クリーンとしては3回目かつ最後の南極行がアーネスト・シャクルトンが率いた''エンデュアランス''による帝国南極横断探検隊であり、クリーンは二等航海士を務めた。''エンデュアランス''が叢氷に閉ざされ沈んだ後、数か月間氷の上を漂流し、救命ボートでエレファント島に移動し、エレファント島からサウスジョージア諸島まで800海里 (1,500 km) をボートで渡るなど一連の劇的なできごとに参加した。サウスジョージアに到着した時、地図や適当な山岳装備もなしに島を横切った初めての3人隊の1人となり、助けを求めた。
これら遠征に対するクリーンの貢献によって、頑丈で信頼できる極圏探検者としての評判が確立し、合計3つの極圏メダルを受章することになった。''エンデュアランス''による遠征後は海軍に戻り、1920年に海軍を退役した後はケリー州に戻った。生まれ故郷のアナスコールでは、妻のエレンと共に「サウスポール・イン」とよぶ宿屋を開いた。そこで静かに控えめな生活をおくり、1938年に死去した。
== 初期の経歴 ==
トマス・クリーン(通常はトム・クリーンと呼ばれた)は1877年7月20日に、アイルランドのケリー州アナスコールの町に近いガータックレーンで生まれた。父はパトリック・クリーン母はキャサリン・コートニーだった〔Smith, Michael, ''An Unsung Hero: Tom Crean – Antarctic Survivor''. Headline Book Publishing, 2000, p. 16〕。10人兄弟であり、地元のブラックルーイン・カトリック学校に入学し、12歳のときには家族の農園で大いに必要とされた人手のために学校を離れた〔Smith, p. 16〕。15歳のとき、近くのミナード入り江にあった海軍の基地でイギリス海軍に入隊した。おそらく父との議論があった後のことだった〔Smith, p. 18〕。少年2等兵としての入隊は、1893年7月10日のイギリス海軍の記録に残っており、クリーンとしては16歳の誕生日の10日前のことだった。両親の了解を得ていなかったので、年齢については嘘を言った可能性が強い〔Smith, p. 19〕。
クリーンの海軍における当初の任務は、デヴォンポート海軍基地で訓練船HMS''インプレグナブル''に乗組むことだった。1894年11月、HMS''デバステーション''乗艦となった。1895年の18歳の誕生日までに、HMS''ロイヤルアーサー''に乗り組み、二等水兵になっていた。それから1年も経たないうちに''ワイルドスワン''に上等水兵として乗艦し、のちには魚雷訓練船HMS''デファイアンス''に移った。1899年までに下士官第2等に昇進し、''ビビッド''に乗り組んでいた〔〔Smith, pp. 20–21〕。
1900年2月、魚雷艇''リンガルーマ''に割り当てられ、サウスアイランドを基地とするイギリス海軍のニュージーランド戦隊配属となった。1901年12月18日、詳細不明の軽罪のために下士官から上等水兵に降格された〔〔Smith, p. 29〕。同月、''リンガルーマ''はロバート・ファルコン・スコットの探検船''ディスカバリー''を支援するよう命令された。''ディスカバリー''はリトルトン港に入港しており、イギリス国営南極遠征として南極に出発するところだった。スコットの船の上等水兵が下士官を殴った後に脱走しており、その後釜が求められていた。クリーンがそれに志願し、認められた〔Smith, p. 31〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「トム・クリーン」の詳細全文を読む




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