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トキワ荘 : ウィキペディア日本語版
トキワ荘[ときわそう]

トキワ荘(トキワそう)は、東京都豊島区南長崎三丁目(住居表示16番6号、完成当時の住所表記は豊島区椎名町五丁目2253番地)に1952年から1982年にかけて存在した木造アパートである。
手塚治虫ら著名な漫画家が居住していたことで有名。
== 概要 ==
上棟式1952年12月6日。老朽化により1982年11月29日に解体。賃貸された部屋のうち二階部分は十室で全て四畳半押入れと入り口部分のスペースを除く)。その他、共同の調理場、トイレなどが存在した〔トキワ荘青春物語― Playback Tokiwaso P.87 - 鈴木伸一によるトキワ荘二階見取図より。〕。
手塚治虫は1952年に上京してから東京都新宿区四谷の八百屋の2階に下宿していたが、やがて昼夜を問わぬ編集者の出入りの激しさについて八百屋の主人から苦情を言われるようになった。このとき手塚は、学童社の加藤謙一の次男・加藤宏泰から、宏泰の住む新築アパート「トキワ荘」に入居するよう誘われ、1953年の初頭にここの住人となった〔「トキワ荘」無頼派 漫画家・森安なおや伝 P.39〕。これを皮切りに、学童社が、自社の雑誌で連載を持つ漫画家の多くをトキワ荘へ入居させた(最も多い時期には7、8名の漫画家が居住し、その仲間の漫画家も出入りするようになったため『マンガ荘』というニックネームまで付けられた〔トキワ荘青春物語― Playback Tokiwaso P.161〕)。
才能ある漫画家たちがトキワ荘に集まった背景には、寺田ヒロオの「空いた部屋には若い同志を入れ、ここを新人漫画家の共同生活の場にしていきたい」「新人漫画家同志で励まし合って切磋琢磨できる環境をつくりたい」との思いがあったほか、「漫画家が原稿を落としそうになった際、他の部屋からすぐに助っ人を呼べる環境が欲しい」という編集者側の思惑と「他の漫画家の穴埋めでもいいから自分の仕事を売り込む機会が欲しい」という描き手側の利害の一致もあったとされている〔「トキワ荘」無頼派 漫画家・森安なおや伝 P.42〕。
それらの若手漫画家達は後に著名になり、その漫画家達によって同じアパートに住んでいたという事実が世間にも伝えられるようになった。なお、トキワ荘への入居と仲間入りに際しては、メンバーたちにより、
*『漫画少年』で寺田が担当していた投稿欄「漫画つうしんぼ」の中で優秀な成績を収めていること。
*協調性があること。
*最低限、プロのアシスタントが務まったり、穴埋め原稿が描けたりする程度の技量には達していること。
*本当に良い漫画を描きたいという強い意志を持っていること。
といった基準で厳格な事前審査が行われていたとされる〔「トキワ荘」無頼派 漫画家・森安なおや伝 PP.42-43〕〔水野英子の入居の際は、すでにトキワ荘にいた石森章太郎、赤塚不二夫と水野の3人で合作し、U・マイヤ名義で作品を発表するという目的があったため、掲載誌『少女クラブ』の担当編集者だった丸山昭が部屋を押さえ、敷金・礼金も払うなど、トキワ荘のメンバーというより編集者主導で事前の準備がなされていた(丸山昭 『トキワ荘実録 手塚治虫と漫画家たちの青春』 小学館文庫、1999年)。〕。こうした背景を考えると、トキワ荘に居住した(できた)のは単なる若手漫画家ではなく、選び抜かれた漫画エリート達であり、トキワ荘から多数の一流漫画家が世に出たのは偶然ではなく必然だったと指摘されている〔「トキワ荘」無頼派 漫画家・森安なおや伝 PP.42-43〕。
また、昭和30年(1955年)5月に結成された新漫画党のメンバー、すなわち寺田ヒロオ(総裁)、藤子不二雄(藤子不二雄A、藤子・F・不二雄)、鈴木伸一森安なおや1957年、除名処分を受ける)、つのだじろう石森章太郎赤塚不二夫園山俊二は、トキワ荘に当時かかっていたカーテンに各自、結成を祝って漫画を描いた。現在そのカーテンは、おもちゃコレクター・鑑定士の北原照久の所有となっており、漫画界の「釈迦の衣」と呼ばれている。
雑誌『COM』では1969年から翌1970年にかけ、各漫画家たちがトキワ荘に住んでいた頃の状況を自伝として描き(後にまとめられ、『トキワ荘物語』として翠楊社より1978年に出版。以後も再刊、再編集)、さらに1970年代からは週刊少年キング等に連載された藤子不二雄(Ⓐ">藤子不二雄)の『まんが道』やつのだじろうの『その他くん』などによってトキワ荘のエピソードが語られ、後進の漫画家、或いは漫画ファンに知られるようになった。その結果、トキワ荘自体も著名な存在となり、既に各漫画家が全員退出してしまった時期においても見学者がはとバスで訪れる〔トキワ荘青春物語― Playback Tokiwaso P.462〕といった聖地的な扱いをされるに至った。解体前の1978年には翠楊社より『トキワ荘物語』が刊行され、解体が決まった1981年、手塚治虫を中心としたかつての居住者らが集まって同窓会が開かれ、その模様はNHK特集『わが青春のトキワ荘~現代マンガ家立志伝~』(NHK)として5月25日放送、ビデオも発売された。このとき、建物に残っていた襖で寄せ書きが作成された。これは『驚き桃の木20世紀』(テレビ朝日)で公開された〔それを見たゲストのなぎら健壱はこの寄せ書きに感動し「全財産を投じて永久保存をするからこれを譲ってほしい」と発言した。〕。また、10月3日にはフジテレビでアニメ『ぼくらマンガ家 トキワ荘物語』(脚本・辻真先、監修・小池一夫、監督・鈴木伸一、キャラクターデザイン・石森章太郎)が放映された。さらに1996年には市川準監督、本木雅弘主演で映画『トキワ荘の青春』が公開されている。
トキワ荘自体は解体された1982年12月に新築され、バス・トイレ付きのアパートになった。そして赤塚不二夫作画の看板が掲げられていた。しかしバブル景気の最中に地上げに巻き込まれ、更地化。現在は日本加除出版の新館社屋となっている。近年、松葉ラーメン店が実行委員長となり記念碑の建立が計画され、2009年3月、トキワ荘跡地近くに位置する豊島区立南長崎花咲公園において着工。同年4月4日、完成した記念碑の除幕式が行われた〔記念碑「トキワ荘のヒーローたち」除幕式(豊島区公式ホームページ)更新日:平成21年4月15日 〕。
2012年4月6日には、トキワ荘跡地に当時の建物をかたどった石造りのモニュメントが設けられ、除幕式が開かれた〔モニュメント(47NEWS)更新日:平成24年4月6日 ">マンガの天才たちが過ごした「トキワ荘」跡にモニュメント(47NEWS)更新日:平成24年4月6日 〕。なお現在のトキワ荘跡地に通じる道路とモニュメントがあるのは、マンガなどでよく描かれるトキワ荘の正面玄関側ではなく、裏口と非常階段があった側である〔もとは落合電話局側に正面玄関に通じる路地があったが、現在は住宅が建っており、かつての正面玄関側からモニュメントを見たりトキワ荘跡地を訪れるのは不可能になっている(トキワ荘について )〕。
トキワ荘に隣接して現存し、赤塚不二夫がかつて借りていた「紫雲荘」は、豊島区が若手漫画家のために入居費用補助などの支援をする「紫雲荘・活用プロジェクト」として運用されている。〔

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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