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トゥルグ・ムレシュ : ウィキペディア日本語版
トゥルグ・ムレシュ

トゥルグ・ムレシュ (; ; ; )は、ルーマニアトランシルヴァニア地方の都市。ムレシュ県の県都。''Tîrgu Mureș''とルーマニア語で綴られることもある。
== 歴史 ==
トゥルグ・ムレシュが初めて記録上に登場したのは、教皇庁の登記で、ノヴム・フォルム・シクロルム(''Novum Forum Siculorum'')の名であった。
1405年、ハンガリー王で神聖ローマ皇帝であったジギスムントが、市を開く権利をトゥルグ・ムレシュの町に授けた(当時の市名はハンガリー語名セーケイヴァーシャールヘイ''Székelyvásárhely''であった)。1482年、マーチャーシュ1世は市を王立定住地とした。1616年には自治体となり、市名をマロシュヴァーシャールヘイ(''Marosvásárhely'')とした(ルーマニア語のTârgu Mureșの''târg''及び、ハンガリー語vásárはどちらも市場を意味していた)。1754年、トランシルヴァニア公国の最高裁判所が置かれたことから、社会、経済での活発な成長を経験することとなった。
ハプスブルク領内での1848年革命の首領アヴラム・ヤンクは、トランシルヴァニアでルーマニア人の権利獲得闘争を始める前は、トゥルグ・ムレシュの若い弁護士であった。
1880年、ポーランドの将軍ユゼフ・ベム像が、市中心部のロセス広場に設置された。1893年、同様にコッシュート・ラヨシュの像も置かれた。1907年にはラーコーツィ・フェレンツ2世像が置かれた。この3体の像は、第一次世界大戦後の1923年に取り払われた。
市の県内での存在は、19世紀終盤と20世紀初頭に大きく変化した。1913年、トランシルヴァニアでのウィーン分離派様式を採用した市庁舎が、市長ジョルジ・ベルナージの都市再開発の一部として開館した。経済の成功は第二次世界大戦まで続いた。対立の後、トゥルグ・ムレシュはトランシルヴァニアの他と同様にルーマニアへ併合され、オショルヘユ(''Oșorheiu'')と改名した。1910年には89%をハンガリー人人口が占める一方、20世紀半ばにはルーマニア人人口が増加した。
1940年から1944年、ウィーン裁定の結果、トゥルグ・ムレシュを含むルーマニア北部がハンガリーへ割譲された。この時期、ユダヤ人ゲットーが市内につくられた。ルーマニア人が市の支配を取り戻すのは、大戦末期の1944年10月だった。
第二次世界大戦後、ルーマニア共産主義政権は重厚な工業化政策を指揮し、完全に共同体の体裁を変え、市にはハンガリー人自治県首府が置かれた(15年後廃止)。その後、トゥルグ・ムレシュはムレシュ県の経済、社会の中心地となった。
1990年3月、共産主義政権を倒したルーマニア革命のすぐ後、トゥルグ・ムレシュは少数派ハンガリー人とルーマニア人との暴力的対決の舞台となった(:en:Ethnic clashes of Târgu Mureș)。
2000年、トゥルグ・ムレシュ人口の相当な割合が、恒常的に外国へ出稼ぎに流出し始めた。地元経済は多様な投資が地域に投入されたことで、強さを取り戻し始めた。
トゥルグ・ムレシュには、多くのハンガリー住民が暮らし、その一部はセーケイ人を自認している。2003年以後、一部のセーケイ人組織が、自治県の中心地になろうと宣伝を行ってきた。現市長ドリン・フロレアは、初の直接選挙で選出されたルーマニア人市長であるが、市議会はハンガリー人が多数派を維持している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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