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ディアトロフ峠事件 : ミニ英和和英辞書
ディアトロフ峠事件[でぃあとろふとうげじけん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とうげ]
  1. (n,n-suf) ridge 2. (mountain) pass 3. difficult part 
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
事件 : [じけん]
 【名詞】 1. event 2. affair 3. incident 4. case 5. plot 6. trouble 7. scandal 
: [くだん, けん]
 【名詞】 1. matter 2. case 3. item 

ディアトロフ峠事件 : ウィキペディア日本語版
ディアトロフ峠事件[でぃあとろふとうげじけん]

ディアトロフ峠事件(ディアトロフとうげじけん)とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連ウラル山脈北部でスノートレッキングをしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。事件は、ホラート・シャフイル山(Kholat Syakhl、、マンシ語で「死の山」の意〔「死者の山」と解釈する人もいるが、野生動物の生息数が乏しく、この地域では狩りの獲物が見込めないところから来ている名前である。〕)の東斜面で起こった。事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフ(ディヤトロフ、ジャートロフ、ジャトロフ、)の名前から、''ディアトロフ峠''(ジャートロフ峠、ジャトロフ峠、)と呼ばれるようになった。
当時の調査では、一行はマイナス30度の極寒の中、テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出したとされた。遺体には争った形跡はなかったが、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷、1体はを失っていた。
さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の放射能が検出された。
事件は人里から隔絶した山奥で発生し、生還者も存在しないため未だに事件の全容について不明な点が残されている〔〔。当時のソ連の捜査当局は“抗いがたい自然の力”によって9人が死に至ったとし〔、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた〔。
== 事件発生まで ==
一行は男性8名女性2名からなり、スヴェルドロフスク州内のウラル山脈北部においてスキーでのトレッキングを計画していた。グループの多くはウラル科学技術学校()、現在のウラル工科大学の生徒か卒業生だった。メンバーは次の通りである。
# イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ()、一行のリーダー、1936年1月13日生まれ。
# ジナイダ・アレクセーエヴナ・コルモゴロワ()、1937年1月12日生まれ。
# リュドミラ・アレクサンドロヴナ・ドゥビニナ()、1938年5月12日生まれ。
# アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・コレヴァトフ ()、1934年11月16日生まれ。
# ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン ()、1936年1月11日生まれ。
# ユーリー(ゲオルギー)・アレクセーエヴィチ・クリヴォニシチェンコ()、1935年2月7日生まれ。
# ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ(、1938年1月29日生まれ。
# ニコライ・ウラジーミロヴィチ・チボ=ブリニョーリ ()、1935年7月5日生まれ。
# セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ ()、1921年2月2日生まれ。
# ユーリー・エフィモヴィチ・ユーディン()、1937年7月19日生まれ、2013年4月27日没。
一行の最終目的地は事件発生現場から10km北の山に設定された。そこまでのルートは、事件当時の季節では踏破の難易度は極めて高いと推定されたが、一行の全員が長距離のスキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかった。
1月25日、スヴェルドロフスク州北部の中心地に一行の乗った列車が到着した。彼らはトラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80km北方にある最後の有人集落に到着、そして1月27日いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した。しかし翌日ユーリー・ユーディンが急病に侵され途中離脱、一行は9人になった。
ユーディンと別れて以降、生前の一行と遭遇した人間は現在に至るまで見つかっていない。ここから先の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものである。1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はついに山麓まで到達し、本格的な登山準備に入る一方で下山するまでに必要と考えられる食料や物資を取り分け、余剰となった分を帰路に備えて周囲に残置した。翌2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入った。適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようだが、悪天候と吹雪視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れ、オトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまった。彼らはやがて誤りに気づいたが、1.5km下って森林地帯に入って風雪を凌ごうとせず、何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにした〔。たった一人の生存者であるユーリー・ユーディンは、「ディアトロフはすでに登っていた地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ディアトロフ峠事件」の詳細全文を読む




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