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テオドール・キルヒナー : ミニ英和和英辞書
テオドール・キルヒナー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

テオドール・キルヒナー : ウィキペディア日本語版
テオドール・キルヒナー[ちょうおん]

フュルヒテゴット・テオドール・キルヒナー(Fürchtegott Theodor Kirchner, 1823年12月10日 ケムニッツ近郊ノイキルヒェン – 1903年9月18日 ハンブルク)は、ドイツ作曲家ピアニストオルガニスト指揮者シレジアドイツ人。当時はドイツ楽壇の重鎮の一人であり、19世紀の多くの指導的な作曲家から友情や尊敬を勝ち得ていながらも、明らかに浪費癖や賭博癖といった自堕落な暮らしぶりのために、成功した活動を維持することができなかった。
== 略歴 ==
すでに8歳にして洗練されたオルガニストにしてピアニストであったことから、1843年フェリックス・メンデルスゾーンの推薦状を得てヴィンタートゥールのオルガニストに就任する。その地でほぼ20年を過ごしたが、たびたびドイツを訪れ、シューマン夫妻やヨハネス・ブラームスと親交を結んだ(クララ・シューマンはキルヒナーのことが大変気に入り、1860年代にはいちど秘密裡に交際したようだが、それでも「彼の性格には、およそ安定感というものがない」と書き残している)。1862年チューリヒに移り、定期会員制の演奏会を監督した。この職務はわずか3年間しか続かず、ピアニストや伴奏者として巡業に取りかかった。1868年に結婚するも、生活は不幸であった。1870年からチューリヒでオルガニストを勤めた後、1872年に宮廷ピアニストとしてマイニンゲンに赴任し、翌年ヴュルツブルク音楽院の院長に就任する。1876年から1883年までライプツィヒに暮らし、その後1890年までドレスデンスコアリーディングを指導した。1884年、ギャンブルで重ねた負債を清算できるように、ブラームスやハンスリックニルス・ゲーゼグリーグハンス・フォン・ビューローが3万マルクを掻き集めてくれた。1890年に妻と家族を見棄ててハンブルクに移り、その地で以前の弟子の世話を受けた。1894年に2度の脳卒中によって不随となり、最晩年には全盲となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「テオドール・キルヒナー」の詳細全文を読む




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