翻訳と辞書
Words near each other
・ チャンスー
・ チャンス大城
・ チャンス法政
・ チャンス目
・ チャンス青木
・ チャンス~トライアングルセッション~
・ チャンズ
・ チャンセラーズビル (ミサイル巡洋艦)
・ チャンセラーズビルの戦い
・ チャンセラーズヴィル (ミサイル巡洋艦)
チャンセラーズヴィルの戦い
・ チャンセン駅
・ チャンソン
・ チャンタ
・ チャンタブリ
・ チャンタブリー
・ チャンタブリーFC
・ チャンタブリー教区
・ チャンタブリー県
・ チャンタブン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

チャンセラーズヴィルの戦い : ミニ英和和英辞書
チャンセラーズヴィルの戦い[ちゃんせらーずヴぃるのたたかい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

セラー : [せらー]
 【名詞】 1. seller 2. (n) seller
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

チャンセラーズヴィルの戦い : ウィキペディア日本語版
チャンセラーズヴィルの戦い[ちゃんせらーずヴぃるのたたかい]

チャンセラーズヴィルの戦い(チャンセラーズヴィルのたたかい、)は、南北戦争の中盤、1863年4月30日から5月6日にかけて、バージニア州スポットシルバニア・コートハウスの村落近くで行われた戦闘である〔。北軍ジョセフ・フッカー少将のポトマック軍が、勢力では半分の南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と会戦を行った。これはリーが危険を承知で遥かに優勢な敵軍の前で自軍を分割して成功したので、その「完璧な戦闘」と呼ばれている〔Dupuy, p. 261.〕。戦闘におけるリーの大胆さとフッカーの臆病さが相俟って北軍にとって深刻な敗北となった。南軍は勝利したが、友軍の銃火でストーンウォール・ジャクソン中将が致命傷を負い、その損失はリーをして「私の右腕を失った」と言わせたように、暗雲を投げかけるものになった。
チャンセラーズヴィル方面作戦は1863年4月27日朝に北軍がラッパハノック川を渡ったことで始まった。北軍はラピダン川をジャーマナ浅瀬とエリー浅瀬を使って渉り、4月30日5月1日にチャンセラーズヴィル近くに集結した。5月1日に激しい戦闘が始まり、北軍が5月5日から6日にかけての夜に川を越えて撤退するまで続いた。
== 対戦した戦力と作戦 ==
チャンセラーズヴィル方面作戦は南北戦争の中でも最大級に一方的な結果になる可能性があった。作戦の開始時点で北軍は戦場に出せる実効勢力133,868名を数えた。対する南軍はほぼその半分以下である60,892名だった〔Eicher, p. 475〕。さらに、北軍は物資をしっかり補充し、数ヶ月間動いていなかったので休養も十分だった。一方リー軍は物資に不足し、部隊がバージニア州中に散開していた。ジェイムズ・ロングストリート中将が指揮する北バージニア軍第1軍団約15,000名は、バージニア半島モンロー砦ニューポートニューズに駐屯する北軍からのリッチモンド、さらにはノーフォークサフォークに対する脅威に対処するために、ノーフォーク近くに駐屯していた〔Sears, p. 94.〕。北軍が動かない時期が続いたこともあって、3月遅くまでにロングストリートの主要任務は北バージニア軍の新しい食糧調達部として行動すること、すなわちノースカロライナ州やバージニア州の農夫や農園主からリー軍のための食糧を請求することに変わっていた〔Sears, p. 95.〕。その結果、ロングストリート配下のジョン・ベル・フッド少将とジョージ・ピケット准将の2個師団はリー軍から130マイル (210 km) 離れており、危急の場合にも1週間以上掛かって到着する可能性があった。リーは1年間近く指揮を執り続けた後で、これらの部隊を直接支配から引き離したことは、その重大な計算ミスであった〔。リーはそれら部隊を呼び戻せると期待していたが、実際にはその勢力で劣る北バージニア軍救援のためには間に合わなかった。
さらに重要なことは、それまでの北軍ポトマック軍の指揮官達が行ったよりも優れた作戦のもとに戦いが始められたことだった。G・H・シャープ大佐が指揮した北軍軍事情報局の完璧な調査によって、リーの北バージニア軍の勢力、その組織、さらにどこに配置されているかまで北軍の指揮官はこれまでより遥かに正確に掴めていた。捕虜、脱走兵、コントラバンド(戦利品の奴隷)および逃亡者といった通常の情報源に問い質して集めた情報とは別に、情報局は歩兵隊や騎兵隊の偵察部隊、陸軍信号司令部の信号場および熱気球部隊による観測を含めた情報源からの情報を初めて総合させた〔Sears, pp. 68-70, 100-101. ポトマック軍は自称「航空術教授」タデウス・S・C・ロー教授とその2個の水素気球、''ワシントン''と''イーグル''の利用を要求でき、それらは通常高度1,000フィート (300 m) 以上まで昇ってリー軍の配置を観測できた。〕。シャープ大佐は軍隊から斥候を募集し、民間からスパイも入れてリー軍に潜入させ、直接情報局に報告させた〔Sears, pp. 68-70.〕。この新しいやり方で、以前ジョージ・マクレランがポトマック軍を指揮していたときにアラン・ピンカートンとその探偵達から得ていた荒っぽい過剰な推計よりも、直面する敵軍の遥かに正確な情報をフッカーは手に入れることができた〔。フッカーはこのより現実的な情報で武装し、側面攻撃の作戦を立てたが、これはアンティータムの戦いや最近のフレデリックスバーグの戦いで起こったような損失を覚悟する正面攻撃を避けることを期待するものだった。
北軍はラッパハノック川越しにリー軍と向かい合っていた冬季宿営地フレデリックスバーグ周辺から出発した。フッカーは大胆なリー軍の挟み撃ちを考え、4個軍団を密かに北西に行軍させ、それから南にラッパハノック川とラピダン川を渡って東に転じ、リー軍の後方を襲わせることとした。残りの軍団はフレデリックスバーグを抜けてリー軍の正面を攻撃することとした。一方、ジョージ・ストーンマン少将が指揮する7,500名ほどの騎兵隊は南軍の後方深く襲撃を行い、アメリカ連合国の首都リッチモンドからフレデリックスバーグに繋がる鉄道に沿った重要な補給基地を破壊させ、リー軍の通信線と補給線を遮断することとした。この大胆で攻撃的な作戦は後に「ストーンマンの襲撃」と呼ばれた。
4月27日と28日、ポトマック軍の4個軍団が数箇所でラッパハノック川とラピダン川を渡り、その大半は2つの川の合流点とチャンセラーズヴィルの小集落近くを通過した。チャンセラーズヴィルはオレンジ・ターンパイクとオレンジ木道の交差点にあるフランシス・チャンセラー家が所有する大邸宅以外ほとんど無いような集落だった。一方ジョン・セジウィック少将が指揮する別働隊30,000名以上はフレデリックスバーグでラッパハノック川を渉り、ストーンマンの騎兵隊はリー軍後方地帯に向かうその動きを始めた。フッカーはラッパハノック川の南にある深い森の「荒野」では実質的に騎兵隊が有効でないと考えたので、騎兵隊の大半をこのようなやり方に使ったために、その主力側面攻撃軍で活動できる騎兵隊は1個旅団を残すのみだった〔Sears, p. 132.〕。南軍のJ・E・B・スチュアート少将が指揮する騎兵隊は、常にリーに情報を流す一方でフッカーには同じような情報が流れないようにすることで、迫り来る作戦行動に重要な役割を果たすことになっていた。
5月1日までにフッカーは約70,000名をチャンセラーズヴィルとその周辺に集中させた。リーはフレデリックスバーグにあるその作戦本部から、一般に認められる戦争の原則を破ることに決めて、優勢な敵軍の面前で自軍を2つに分け、積極的な行動でフッカー軍が自軍に対して十分に集中できる前にその一部を攻撃して破ることを期待した。リーは重厚に防御を施したメアリーズ高地にウィリアム・バークスデイル准将の1個旅団を、またプロスペクトヒルにはジュバル・アーリー少将の1個師団12,000名を残してセジウィックの軍団の前進に抵抗させ、ストーンウォール・ジャクソンには西に向かってリチャード・H・アンダーソン少将の部隊と合流して40,000名の軍隊となり、チャンセラーズヴィルのフッカー軍に対処させることとした。南軍にとって幸いなことに、ラッパハノック川にそって厚い霧がこれら部隊の西行を隠し、セジウィックには敵の意図がつかめるまで攻撃を待たせる選択をさせた〔Salmon, pp. 176-77.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チャンセラーズヴィルの戦い」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.