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アンティータムの戦い : ミニ英和和英辞書
アンティータムの戦い[あんてぃーたむのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

アンティータムの戦い : ウィキペディア日本語版
アンティータムの戦い[あんてぃーたむのたたかい]

アンティータムの戦い(アンティータムのたたかい、英:Battle of Antietam、またはシャープスバーグの戦い(Battle of Sharpsburg、特に南部での呼び方))は、南北戦争の中盤1862年9月17日メリーランド方面作戦の一環としてメリーランド州シャープスバーグ近く、およびアンティータム・クリークで行われた戦闘であり、北部の大地で行われたことでは南北戦争で初めての主要会戦であった。両軍合わせて約23,000名の損失があり、合衆国の歴史の中でも単一日の戦闘として最も流血の多い戦闘となった〔McPherson, p. 3.〕。
北軍のジョージ・マクレラン少将はメリーランドにロバート・E・リー将軍の南軍を追求した後で、アンティータム・クリークの背後に防御陣を築いた北バージニア軍に対する攻撃を掛けた。9月17日の夜明け、北軍ジョセフ・フッカー少将の軍団が、北バージニア軍の左翼に強攻を掛けた。ミラーのトウモロコシ畑で攻撃と反撃が続き、戦闘はダンカー教会の回りにも及んだ。窪んだ道路に対して行われた北軍の突撃が南軍の中央を後退させることになったが、北軍も右翼の2人の軍団長が共に戦死・負傷して後退しており、戦闘は予断を許さなかった。午後になって、北軍アンブローズ・バーンサイドの軍団が戦闘に突入し、アンティータム・クリークに架かる石橋を確保した後、南軍の右翼に向けて前進した。この重要な局面に、ハーパーズ・フェリーから南軍A・P・ヒルの師団が到着し、急襲を掛けてバーンサイド軍を押し返し、戦闘を終わらせた。
両軍とも最初多くの部隊を予備にし、順次投入する戦術を取った。その結果南軍は最終的に予備を使い切ったが、マクレランは自軍の4分の1程度の予備を最後まで残した。北バージニア軍は数の上では1対2と負けていたが、地形をうまく利用して北軍と対等に渡り合えた。夜の間に両軍共その戦線を集約した。北バージニア軍は相当な損失を被り、9月18日の1日中ポトマック軍との小競り合いを続けたが、有利な地形を北軍に奪取された状態ではもはや北軍に打撃を与えるチャンスはなく、その間に疲れ切った軍隊は川の南に退いた〔NPS .〕。
ポトマック軍に数の優位があったにも関わらず、北バージニア軍が撤退を選ばずにここで戦ったのは、地形を利用することでポトマック軍を破れると考えていたためである。しかしマクレランは適切な順序で順次南軍の弱点を突いていき、南軍の逆転を許さなかった。マクレランは、ここでは戦術的大勝利を狙うことよりも、確実に勝つことが重要であることを知っていたため、最後まで予備部隊を残し事態の急変に備えた。これにより北バージニア軍を壊滅させることはなかったが、北バージニア軍のメリーランド侵攻は終わり、リーはバージニア州内に軍隊を引き上げざるを得なくなった。この戦闘は戦術的な勝利の意味よりも、エイブラハム・リンカーン奴隷解放を宣言する自信を得たことで、北軍にとって戦略的な勝利の意味がはるかに大きかった。
== 背景およびメリーランド方面作戦 ==
ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍、45,000名は、1862年8月29日第二次ブルランの戦いでの勝利に続き、9月3日にメリーランド州内に入った。リーの戦略は、境界州であるメリーランド州内では南軍に同調する者が多くいると考えられたので〔メリーランドは合衆国に残ったものの奴隷州であり、南軍が侵攻して北軍を追い出す事ができればメリーランドを南部連合に引き込む事ができる可能性すらあるとリー自身ディヴィス大統領に説明していた。Palmer, pp. 16〕、新しい物資や徴兵を求めることであり、北部で近々行われる選挙の前に世論に影響を与えることであった(後に分かるように、リーの行動による社会な衝撃は様々なものが混ざっていた。メリーランド人は北バージニア軍音楽隊の発する「メリーランド、マイ・メリーランド」の音楽によって、リーが期待したほど南部連合国に惹きつけられる事はなく、北軍ポトマック軍がアンティータムで南軍をなんとか撃退したことによって、メリーランドの人々が南部に鞍替えする可能性は消えた)。アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスを含み南部の政治家達は、北部の大地の上で軍事的な勝利を得れば、諸外国が南部を認知する可能性が増えるものと信じていた。そのような勝利はイギリスフランスからの認知を得、財政的な支援を得られたかもしれないが、南部がこの可能性を追求してその軍事作戦を立てるべきとリーが考えたという証拠は無い〔Sears, pp. 65-66; McPherson, pp. 88-95.〕。
リーは自軍がメリーランドに侵攻した後もマクレランが数週間は動かないだろうと予想していた〔Palmer pp. 21.〕。直前の第二次ブルランの戦いではバージニア軍を完全に崩壊させ、半島戦役でもポトマック軍を士気喪失させ、北軍は戦える状態にないものとリーは思っていたからだ。しかしマクレランは完全にリーの虚を突いていた。半島戦役の後退はリーの思っていたような敗走ではなく、実は南軍の攻撃を誘うための戦略的後退であり、半島から戻ったマクレランはバージニア軍を吸収するとこれを驚異的な速さで回復させ、万全の態勢を整えていた。
マクレラン率いるポトマック軍(兵力約90,000名)が北バージニア軍の進路を抑えるように展開する中で、第27インディアナ志願歩兵連隊の2人の北軍兵士(バートン・W・ミッチェル伍長とジョン・M・ブロス曹長〔Sears, p. 112; McPherson, p. 108.〕)が、3本の葉巻を包んだまま誤って置き忘れられていたリーの詳細な作戦計画(特務191号)の写しを発見した。この書類の内容は、リーが北バージニア軍を分割し、地理的に分散した地点(ハーパーズ・フェリーヘイガーズタウン)に派遣したことを示すものだった。もしマクレランがこの情報を妄信してすぐに動けば、それぞれの部隊を孤立させ打ち負かすチャンスだったかもしれない。しかしマクレランはこの情報の真偽の確認と利点を活かすための作戦立案と自軍の再配置のために約18時間かかり、北バージニア軍を徹底的に打ち破るには至らなかった〔敵軍が12万もの大軍だと思っていたせいと、この書類が実はリーの罠ではないかと疑っていたせいだと言われている。Palmer, pp. 28〕。しかし歴史家は後知恵でこの書類が本物だったことを知っているが、実戦で紙切れ1枚を鵜呑みにしてそれだけで行動するようなものは、指揮官失格である。情報の真偽を確認して確実に南軍を捕捉したマクレランの行動は適切だった。
アンティータムの会戦の前にメリーランド方面作戦では2つの重要な戦闘があった。ストーンウォール・ジャクソン少将がハーパーズ・フェリーを占領したことと、マクレランがサウス山の戦いブルーリッジ山脈を通って攻撃を掛けたことであった。ハーパーズフェリーの戦いは、アンティータムの戦いの開始時点でジャクソン指揮下の部隊がハーパーズフェリーで北軍守備兵の降伏に臨んでいて、戦闘布陣から抜けていたために重要であった。サウス山の戦いは、山脈を通る2つの峠道を南軍が頑固に守ってマクレランの進軍速度を遅らせたために、リーがシャープスバーグにその軍隊の残りを集結させる時間を与えたということで重要だった〔McPherson, pp. 110-12.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アンティータムの戦い」の詳細全文を読む




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