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ダニエーレ・マニン : ミニ英和和英辞書
ダニエーレ・マニン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ダニエーレ・マニン : ウィキペディア日本語版
ダニエーレ・マニン[ちょうおん]

ダニエーレ・マニン(Daniele Manin, 1804年5月13日 - 1857年9月22日)は、弁護士で、ヴェネツィア政治家イタリアの愛国者。1848年革命により独立を宣言したヴェネツィア臨時政府の大統領。
ヴェネツィア共和国最後のドージェであるルドヴィーコ・マニンと同じ姓だが、血の繋がりはない。父方はユダヤ系で、本来の苗字はフォンセカ(Fonseca)だったが、1759年にキリスト教に改宗した際の名づけ親(この人物はルドヴィーコ・マニンの親戚であった)の姓からマニン姓とした。
1848年革命の影響下、3月にロンバルド=ヴェネト王国オーストリア)に対する蜂起を行い、ヴェネツィア臨時政府(ヴェネト共和国、サン・マルコ共和国)の大統領に就任。市を包囲されていた間彼は、その知性、勇気、力を見せた。翌1849年8月に降伏。
その後、パリに住みイタリア語を教えながら、愛国心を持ちつづけた。1857年8月1日国民協会(Società nazionale)の設立を行ったが、イタリア統一を見ずに同年死去した。
彼の息子ジョルジョ(Giorgio, 1831年-1884年)も愛国者となり、ガリバルディ千人隊の一人となった。
== 伝記 ==

* A. Errera, ''Vita di D. Manin'' (ヴェネツィア, 1872年)
* P. de la Farge, ''Documents, &c., de D. Manin'' (パリ, 1860年)
* Henri Martin, ''D. Manin'' (パリ, 1859年)
* V. Marchesi, ''Settant' anni della storia di Venezia'' (トリノ)
* Contessa Martinengo Cesaresco ''Italian Characters'' (ロンドン, 1901年)




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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