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タモリのオールナイトニッポン : ミニ英和和英辞書
タモリのオールナイトニッポン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

タモリのオールナイトニッポン : ウィキペディア日本語版
タモリのオールナイトニッポン[ちょうおん]

タモリのオールナイトニッポン』は、ニッポン放送をキーステーションに、1976年10月6日〔から1983年9月28日まで毎週水曜日の25:00 - 27:00(JST)に生放送されていた、ラジオバラエティ番組。メインパーソナリティータモリであり、自身の冠番組
== タモリ起用の背景 ==
1975年のある日、『高信太郎オールナイトニッポン』のディレクターを担当していた、岡崎(近衛)正通は、メインパーソナリティの高からある男について話を聞く。それは「福岡から来た早稲田出身の変な男が夜な夜な新宿のバーでデタラメな外国語を話している」というものだった。
それを聞いた岡崎は、その変な男は以前早稲田大学モダンジャズ研究会にいた森田一義、のちのタモリではないかと直感する。かつて自身も所属した同研究会で異彩を放った同い年の後輩を岡崎は記憶していた。高に名前を確認すると、やはりタモリであった。そこで岡崎は、高からタモリの連絡先を聞き、当時赤塚不二夫宅にて居候をしていたタモリと久方ぶりの再会を果たすこととなる。
その年のに岡崎は有楽町にある、ニッポン放送にタモリを招き、オーディションを兼ねつつ遊びの感覚でタモリのトークをテープに録る。その内容は確かに面白いものであったがかなり過激であり、放送禁止の内容に溢れていた。
その後、岡崎は『高信太郎のオールナイトニッポン』にてタモリの芸を披露する機会を設ける〔例えば、「もしもアルプスの少女ハイジ中国人だったら」或いは「もしも中国に競馬中継があったら」といったテーマでデタラメな中国語を披露した。〕。すると、リスナーの反響は徐々に高まり、タモリの出演回数も増えていった。同番組は、1975年9月に最終回を迎える。その最終回のゲストは、アグネスチャンであったが、岡崎はその回にもタモリを出すことを思い付く。そして、当日の放送でタモリはアグネスのファンを名乗る中国人として電話出演、デタラメな中国語を披露する。これによってニッポン放送社内の、まだ無名だったタモリに対する注目が高まることとなった。
同じ時期、TBSラジオで放送されていた、林美雄がメインパーソナリティを務めていた『パックインミュージック』に高がゲスト出演した際にタモリも出演。林が話すデタラメなニュースにタモリがこれまたデタラメな外国語で同時通訳をした。この放送はかなりの印象をリスナーに与え、当時の10代目柳家小三治もTBSに問い合わせをしたという。
こうした状況のもと、1976年以降、『オールナイトニッポン』全般を取り仕切る立場にあった岡崎は、タモリの起用を決断する。当時のタモリは芸能活動を始めてまだ2年目の新人タレントではあったが、彼を起用することに対して、ニッポン放送社内では特に大きな反対はなかった〔以上の記述は主に以下を参照した。
*『タモリ伝』片田直久 コアマガジン 第五・六章
*『タモリ読本』洋泉社 p74-79〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「タモリのオールナイトニッポン」の詳細全文を読む




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