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スティーヴン・ジェイ・グールド : ミニ英和和英辞書
スティーヴン・ジェイ・グールド[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

スティーヴン・ジェイ・グールド : ウィキペディア日本語版
スティーヴン・ジェイ・グールド[ちょうおん]

スティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould、1941年9月10日 - 2002年5月20日)はアメリカ合衆国古生物学者進化生物学者科学史家1973年ハーバード大学の比較動物学教授となり、1982年からハーバード大学アリグザンダー・アガシ記念教授職を務めた。ダーウィン主義をベースにした進化論の論客であり、膨大な読書量からくる博学の科学エッセイストとして活躍していた。今日最も広く読まれ、最も影響力の大きな大衆科学作家の一人。
アメリカの科学雑誌『ナチュラル・ヒストリー』誌にエッセイを毎月かかさず書き、そのエッセイをまとめたものもベストセラーとなっている。『フルハウス 生命の全容ー四割打者の絶滅と進化の逆説』を著すなど、ベースボールの熱狂的なファンであり、著作にしばしば野球をテーマにしたエッセイを書いていた。
小惑星(8373)スティーヴン・グールドは彼にちなむ。

==経歴==
グールドはニューヨーク市のクイーンズで生まれた。彼の父レナードは法廷速記官で、母エレノアはアーティストだった。グールドが 5歳の時に、彼の父はアメリカ自然史博物館の恐竜館に彼を連れて行き、初めてティラノサウルス・レックスと出会った。「私はそんな物があるとはしらなかった。私は畏敬の念に打たれた」とグールドは後に振り返っている〔Green, Michelle. 1986. "Stephen Jay Gould: driven by a hunger to learn and to write" ''People Weekly'' 2 June.〕。彼はその時古生物学者になる決意を固めた。
グールドは世俗的なユダヤ教徒の家庭で育ち、宗教的な教育を受けなかったので、彼は不可知論者と呼ばれることを好んだ〔『神と科学は共存できるか?』新妻昭夫訳〕。政治的には「マルクス主義の父によって育てられた」けれども、彼の政治観は父親とは「かなり違っていた」と述べている。
グールドによれば、最も彼に影響を与えた本はライト・ミルズの『パワーエリート』とノーム・チョムスキーの政治書で、さらにグールドはアンティオーク・カレッジで1960年代の政治的に進歩的な学風の影響を受けた。1970年代にアカデミックな左翼主義の団体「人民のための科学」に参加した。彼はその経歴と執筆、講演を通して、あらゆる種類の文化的抑圧、特に彼が性差別女性差別の助けとなるニセ科学と見なしたものへの反対活動に影響を与えた。のちにベトナム戦争が起きると反戦運動に積極的に参加した。行進に加わり、学生たちを援助した〔''A scientist of the people'' PHIL GASPER 〕。
アンティオック・カレッジを卒業後、コロンビア大学大学院へ進む。ここで総合説の創設者であるテオドシウス・ドブジャンスキーエルンスト・マイヤージョージ・ゲイロード・シンプソンらの教えを受けた。1967年、博士号取得。 26歳でハーバード大学助教授に就任。1973年、同大学教授(専門は比較動物学)。1982年、ハーバード大学アリグザンダー・アガシ記念教授職、博物館古無脊椎動物学キュレーターを勤めた。
1982年に悪性の腹膜中皮腫と診断された。困難な二年の治療のあと、「メジアンは神のお告げじゃない」と題するコラムをディスカバー誌に発表した〔平均中央値は神のお告げじゃない 〕。これは多くのがん患者に読んでもらいたい珠玉の一編として知られている。(著作物『がんばれカミナリ竜』32章「メジアンはメッセージではない」を参照)。それは腹膜中皮腫を診断された人の診断後余命の中央値が8ヶ月である事を知った彼の反応について述べている〔 〕。彼はこの数値の正しい意味を説明し、統計的な中央値は役立つ抽象概念であってあらゆるバリエーションを含むわけではないと理解することが慰めになったと明らかにする。中央値は中間点であり、それは50%の患者が8ヶ月以内に死亡することを意味するが、残りの半分はそれよりも長く(もしかすると非常に長く)生きる。それから彼は自分の状態がどのあたりにあるのかを知る必要があった。癌が早期に見つかり、彼が若く、楽観的で、できうる限りのベストな治療を受けたことを考えれば、グールドは自分がその統計的範囲の好ましい方にいるはずだと考えた。手術、放射線と化学療法を受けた後、グールドは完全に回復し、彼のエッセイは多くの癌患者の励ましとなった。
グールドは医療用マリファナの使用を擁護している。癌治療の間、彼は化学療法の吐き気を軽減するためにマリファナを服用した。グールドによれば、彼の最終的な回復にマリファナは「非常に大きな役割」を果たした〔 39-41; available on-line .〕。1998年にカナダの医療用マリファナの使用者で活動家であるジム・ウェイクフォードの裁判でグールドは証言した。
ナチュラル・ヒストリー誌の彼のエッセイは、しばしば彼の科学以外の興味と気晴らしに言及する。子どもの頃は野球カード集めに没頭し、人生を通して大の野球ファンであった。SF映画が好きだったが、その多くが科学的にはともかく、脚本がひどいと嘆いた。マドリガーレを歌い、ギルバートとサリヴァンのオペレッタの熱狂的なファンであった。希少な本と古い教科書の収集を趣味とした。しばしば、仕事と娯楽をかね併せてヨーロッパへ旅行し、フランス語とドイツ語を話した。ルネッサンス様式の建築を賛美した。ユダヤ教徒キリスト教の伝統について論じるとき、たびたびそれを単に「モーゼ」と呼んだ。時々、自分の体重が増加傾向にあることを悲しげに語った。
グールドは2002年5月に、脳まで転移した肺癌によって死去した。この癌は20年前の腹部の癌(腹膜中皮腫)とは無関係だった。彼はソーホーの自宅で、彼の妻と、母と、彼が愛した多くの書物に囲まれながら死去した。
グールドは二度結婚した。最初の一人はアンティオークカレッジで出会ったアーティスト、デボラ・リーで1965年に結婚した。1995年に彫刻家のロンダ・ローランド・シーレーと再婚した。彼には四人の子どもがいる。最初の結婚でジェシーとイーサンを得、二度目の結婚で継子ジェイドとロンドンを得た。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スティーヴン・ジェイ・グールド」の詳細全文を読む




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