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スタンド・ワティー : ミニ英和和英辞書
スタンド・ワティー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

スタンド・ワティー : ウィキペディア日本語版
スタンド・ワティー[ちょうおん]

スタンド・ワティー(、またはスタンドホープ・ウワティーデガタガスタンド・ファームアイザック・S・ワティー1806年12月12日-1871年9月9日)は、チェロキーインディアンの指導者であり、南北戦争では南軍将軍だった。ミシシッピ川流域軍で大半がチェロキー族、クリーク族およびセミノール族からなるインディアン騎兵隊を指揮した。1862年から1866年はチェロキー族の大酋長を務めた。
== 初期の経歴 ==
ワティーは1806年12月12日にチェロキー族国家のウースカロガ(現在のジョージア州カルフーン)で、「ウワティー」(チェロキー語で「古代の人」)、キリスト教洗礼名「デイビッド・ウワティー」と、チェロキー族と白人の混血だったスザンナ・リースの息子として生まれた。ワティーは「ガレジナ・"バック"・ワティー」(エリアス・ブーディノット)の弟だった。この兄弟はメジャー・リッジの甥であり、ジョン・リッジとは従兄弟だった。1827年までに父のデイビッド・ウワティーは富裕な奴隷所有農園主となった。スタンド・ワティーもキリスト教徒であり、アイザック・ウワティーの洗礼名を持つ。しかし、そのチェロキー語の名前「テイカートーカー」の英語訳(Stand Firm、断固たる態度を取る)を好んだ。後に「ウワティー」から「ウ」が落ちて、姓がワティーになった。

ワティーはチェロキー族国家のスプリング・プレイスにあるモラヴィア教会学校で英語の読み書きを習い、時には新聞「チェロキー・フェニックス」のために記事作成で貢献し、そのためにジョージア州の抑圧的反インディン諸法に関する論争に巻き込まれることになった。後にジョージア州北部のチェロキー族の土地で金が発見されたとき、何千という白人開拓者がインディアンの土地に侵入した。インディアンを州の行動から守る連邦の条約があったにも拘らず、ジョージア州は1832年にチェロキー族の土地の大半を押収し、ジョージア州民兵がチェロキー・フェニックスを破壊した。

ワティー兄弟はオクラホマへのチェロキー族移住に賛成の立場を採り、ニューエコタ条約に署名した集団の一員になった。チェロキー首長グウィスグウィ(ジョン・ロス)に随う反移住国民党は条約の批准を拒否したが、ワティーとその家族および多くの他のチェロキー族は西部に移住した。東部の種族の土地に留まったチェロキー族(およびその奴隷達)は1838年アメリカ合衆国政府により「涙の道」と呼ばれる連行で強制移住させられ、その連行で数千人のチェロキー族が死んだ。国民党のメンバーは、スタンド・ワティー、その兄のエリアス・ブーディノット、メジャー・リッジおよびジョン・リッジなど条約に署名した党派の者達を暗殺のターゲットにし、そのうち4人は1839年6月22日に暗殺に成功し、スタンド・ワティーのみがなんとか免れた。兄弟のトマス・ワティーも1845年にロスの党派の者に殺された。
奴隷所有者であるワティーはインディアン準州のスパビノー・クリークでプランテーションを始め成功した。1845年から1861年にはチェロキー族部族会議の議員を務め、その間に議長も務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スタンド・ワティー」の詳細全文を読む




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