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スタニスワム・レム : ミニ英和和英辞書
スタニスワム・レム
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


スタニスワム・レム ( リダイレクト:スタニスワフ・レム ) : ウィキペディア日本語版
スタニスワフ・レム

スタニスワフ・レム Stanisław Lem , 1921年9月12日 - 2006年3月27日)は、ポーランド小説家SF作家思想家。ポーランドSFの第一人者であるとともに、20世紀SF最高の作家の一人とされる。また、著書は41の異なる言語に翻訳され、2700万部が販売されており、世界で最も広く読まれているSF作家である〔http://www.mirror.co.uk/news/top-stories/2011/11/23/stanis-aw-lem-google-doodle-ten-things-you-need-to-know-about-the-polish-science-fiction-writer-115875-23582355/ Stanisław Lem Google Doodle: Ten things you need to know about the Polish science fiction writer〕。代表作に、2度映画化もされた『ソラリスの陽のもとに』など。
日本での翻訳初期にはロシア語版からの重訳での出版が多かったためか、ロシア語読みでスタニスラフ・レムと紹介されることが多かった(斜線(クレスカ)の付いた ł はポーランド語では L ではなく w の発音だが、キリル文字圏ではЛになるため)。
==経歴==
1921年、ポーランドリヴィウ(現ウクライナ)に〔『ザ・ニューヨーカー』59号(1984年1月30日)88-98頁に掲載の自伝的エッセイ"Chance and Order" および『ジューイッシュ・クロニクル』掲載の死亡記事(2006年5月18日)から。〕生まれる。父サムエルはユダヤ系、母サビーナはカトリック系であるが、レムはカトリック教徒として育てられる(のちに長じて無神論者になる)。ギムナジウム時代に知能指数が180であることが分かり、当時の南ポーランドでは最も頭のいい子供だったという。1940年にルヴフ医科大学に入学し生物学を学ぶ傍ら、数学や、思想哲学サイバネティクスの研究も行う。ルヴフがナチス・ドイツに占領された期間は自動車工溶接工として働いた。大学卒業後は大学に研究員として勤務。1946年、ルヴフがソ連に割譲されると、クラクフに移住、ヤギェウォ大学に進む。この頃から雑誌に詩や短編小説を発表する。1948年にヤギェウォ大学を卒業し、大学附属の科学研究院に勤め、月刊誌「科学生活」の科学顧問として科学の方法論などに関する論文を発表する。この年、長編小説『失われざる時』を執筆、これは現代小説で3部作のうち第2、3部は社会主義リアリズム作品となっているが、出版されたのは「雪解け」後の1955年だった。
1951年、『金星応答なし』で本格的にSF作家としてデビューした。この時期の作品は社会主義リアリズム影響下にあり、レム自身その価値を否定している。1955年に金十字功労賞受賞。1957年、クラクフ市文学賞受賞。1959年、ポーランド復興十字勲章受章。1965年、ポーランド文化芸術大臣賞第二席。1959年から1964年に書かれた『エデン』『ソラリスの陽のもとに』『砂漠の惑星』は後にファーストコンタクト三部作と呼ばれ、異星人とのコミュニケーション不可能性がテーマとなっている。『ソラリスの陽のもとに』は代表作の一つとされ、『惑星ソラリス』(1972年、監督アンドレイ・タルコフスキー)および『ソラリス』(2003年、監督スティーブン・ソダーバーグ)として2度映画化された。
1969年、外務省から外国でのポーランド文学普及に対して表彰状を受ける。1970年代になると、研究書『SFと未来学』や、メタフィクション完全な真空』『虚数』などを発表。1976年、文化芸術大臣賞第一席。1979年、ポーランド復興上級十字勲章受章。
戒厳令の敷かれた1982年西ベルリンの高等科学研究所の研究員として招聘される。この同僚であったオーストリア文学研究所所長ヴォルフガング・クラウスの招待で1983年ウィーンに移り、1988年帰国。ベルリンにいる期間に『完全な真空』の一作、「ワン・ヒューマン・ミニット」「二十一世紀の事件簿」の短編3作を執筆、『ニューヨーク・タイムス』『朝日新聞』へ寄稿し、1987年に書いた『大失敗 (''Fiasko'')』が最後の小説となった。2005年、レム著作集(ポーランド語版、34巻)完結を記念して、クラクフにて出版元「文学出版社(''Wydawnictwo Literactkie'')」による「レム会議(''Kongres LEMologiczny'')」が開催され、県立図書館での展示会、ヤギェウォ大学天文台での見学ツアーと講演、町の中央広場での地球外生命大集合と宇宙ファッション・コンクール、シンポジウム「私とレム」などが行われた。2006年3月27日、ヤギェウォ大学病院にて死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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