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ジョージ・ガーシュウィン : ミニ英和和英辞書
ジョージ・ガーシュウィン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョージ・ガーシュウィン : ウィキペディア日本語版
ジョージ・ガーシュウィン[ちょうおん]

ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin、1898年9月26日 - 1937年7月11日)は、アメリカ作曲家。本名、ジェイコブ・ガーショヴィッツ(Jacob Gershowitz)。ポピュラー音楽クラシック音楽の両面で活躍しアメリカ音楽を作り上げた作曲家として知られる。通称『完璧な音楽家』。
== 略歴 ==
ユダヤロシアの移民の息子として、ニューヨークブルックリンに生まれた(もとの姓はゲルショヴィチ Gershovich <
*Hirschowicz)。
初めてクラシック音楽に触れたのは小学生のときに聴いたドヴォルザークの「ユーモレスク」だという。父親は貧しい生活の中、ジョージ12才の時、兄のアイラ・ガーシュウィンに音楽を学ばせようとピアノを買ってやったが、文学者肌のアイラはピアノを弾かず、代わってジョージがピアノに親しむことになり、13才の時にピアノ、和声を習った。〔『ガーシュウィン・ピアノ名曲集』P4、ドレミ音楽出版、2008年〕
出世作となったのは、作詞家アーヴィング・シーザーとの共作になる1919年の歌曲「」で、人気歌手アル・ジョルソンに気に入られて彼が繰り返し歌ったことからヒットし、人気ソングライターとなる。
1920年代以降は、作詞家となった兄アイラ・ガーシュウィンと組んで、レビューミュージカル向けに多くのポピュラー・ソングを送り出した。ガーシュウィン兄弟によって作られ、後年までスタンダード・ナンバーとして歌われている歌曲は『私の彼氏(The Man I Love)』『バット・ノット・フォー・ミー』『アイ・ガット・リズム』などをはじめ、おびただしい数に上る。
クラシックにも取り組み、1924年には『ラプソディ・イン・ブルー』(''Rhapsody in Blue'')を発表。当時ガーシュウィンにとって管弦楽法は未知領域だったためファーディ・グローフェの協力を得て、ジャズとクラシックを融合させたこの作品は「シンフォニック・ジャズ」の代表的な成功例として世界的に評価された〔奥田恵二 『「アメリカ音楽」の誕生 社会・文化の変容の中で』 p.213、河出書房新社、2005年〕。
その後独学でオーケストレーションを学び、いくつかの管弦楽作品を残した。そのひとつ『パリのアメリカ人』(''An American in Paris''、1928年)もよく知られている。因みに、オーケストレーションを学びたいがためにイーゴリ・ストラヴィンスキーの元に訪れたら、クラシック作曲家としては異例の高収入で知られていたことから、逆に「如何すれば其処まで収入を上げられるのかこちらが教えてほしい」と言われたというエピソードが流布している(ストラヴィンスキーは晩年のインタビューでこれを事実無根だと否定しているが、「でも、そういうことがあったら、楽しかっただろうなあ」とも語っている〔満津岡信育「ガーシュウィンのさまざまな邂逅―クラシック系作曲家との豊穣なる交流」、レコード芸術2007年3月号P.48〕)。また、モーリス・ラヴェルにも教えを請うたが、ラヴェルからは「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はないでしょう」と言われたという。さらにラヴェルはナディア・ブーランジェへの紹介状を書いたが、彼女は「ガーシュウィンには生まれながらの音楽的才能があり、その邪魔をしたくない」と弟子とすることを断ったという〔ハンスペーター・クレルマン 『ガーシュウィン』渋谷和邦訳、P84、音楽之友社、1993年〕。
兄・アイラと作家デュボース・ヘイワードとの協力によって書かれ、黒人コミュニティの風俗をリアルに描いたフォーク・オペラ『ポーギーとベス』(''Porgy and Bess'')は1935年にオール黒人キャストという意欲的な企画で初演されたが、初演時は反響は得られなかった。のちに評価が高まり、現在ではアメリカ音楽の古典となっている。劇中で歌われる『サマータイム』(''Summertime'')はポピュラーソングのスタンダードナンバーとして広く親しまれている。
1937年7月9日に脳腫瘍のため昏睡状態となり、10日に手術を行ったが、11日に急逝した〔同書、P172-173〕。38歳9ヶ月半の若さであった。1920年代初頭から腹痛発作と頑固な便秘にしばしば悩まされ、自ら「作曲家の胃袋(composer's stomach)」と呼んでいた。また、1936年の暮れごろからすでに彼はうつ状態になったり、いらいらしたりしていたが、超過密スケジュールをこなす有名人特有の「ハリウッド病」が出てきただけと思われていた。1937年2月には指揮のリハーサル中に指揮台の上で突然よろけたが、ちょっとバランスをはずしただけと言っていた。その晩、突然ゴムの焼けるような異様な臭いが感じられ、その直後、約10秒間ほど意識消失があった。この異臭に引き続き起こった意識障害発作は、きわめて典型的な鈎回(uncal gyrus)発作、すなわち側頭葉前端内側部に発作焦点を有するてんかん発作と思われるが、この時この発作の意味するところに気付かなかった。4月に床屋の椅子の上で、再び同じ発作があった。これ以降同様の発作が繰り返し起こるようになり、その頻度が増してくると同時に明け方になると起こる強い頭痛も加わってきた。またこの頭痛に、めまいと吐き気が伴うようになってきた。このため6月には受診している。毎日のように意識障害発作を生じており、発作直前にはいつも異臭を感じるようになっていた。これらが彼の最後の病に関係しているものかどうかについては、はっきりしたことはわからない。7月に入院した際にカール・ランド博士とハワード・ナフツィガー博士は脳室撮影を行った。頭蓋に開けた小孔から脳室内に空気を注入してX線撮影を行い、脳室を造影するこの検査法は、ダンディー博士(Walter Edward Dandy)によって始められた検査法であり、X線CTスキャンが実用化されるまでの数十年間にわたって脳腫瘍の検査に不可欠な検査であった。できあがったフィルムには右側側脳室が圧迫されており、右側頭葉の腫瘍と思われる。開頭手術の結果、右側頭葉は嚢胞を伴う大きな腫瘍がみつかり、5時間に及ぶ手術にできる限りの手を尽くした。大きな腫瘍は摘出されたが、術後もガーシュウィンの意識は戻らなかった。手術された脳腫標本によると、多形膠芽腫という説もある。
舞台作品の数は50曲にのぼり、その中でオペラは2曲、ミュージカルが50曲、映画音楽は4曲しか残されていない。管弦楽曲は7曲を作曲している。室内楽曲は2曲のみ。ピアノ曲は10曲。歌曲は500曲も残されている。
また、ジョージは多調十二音技法にも関心を持っており、「2つの調による即興曲」では多調を試みている。アルバン・ベルクアルノルト・シェーンベルクとは親交を持ち、アメリカへ渡ったシェーンベルクとはテニスを楽しんだり、肖像画を描いて送ったエピソードが知られている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョージ・ガーシュウィン」の詳細全文を読む




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