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ジョン・モスビー : ミニ英和和英辞書
ジョン・モスビー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョン・モスビー : ウィキペディア日本語版
ジョン・モスビー[ちょうおん]

ジョン・シングルトン・モスビー(英:John Singleton Mosby、1833年12月6日-1916年5月30日)は、「灰色の亡霊」とも渾名される、南北戦争時の南軍正規騎兵大隊長である。その第1バージニア騎兵隊第43大隊は、電撃的な襲撃、ゲリラ戦あるいはレンジャーのような戦術で注目され、北軍の追撃を巧みに逃れて部隊兵とともに隠れ、土地の農夫や町民に融け込んでしまう能力でも認められた。
== 生涯 ==

=== 初期の経歴と教育 ===
モスビーはバージニア州ポウハタン郡で、バージニー・マクローリンとアルフレッド・ダニエルのモスビー夫妻の息子として生まれた。父のアルフレッドはハンプデン・シドニー大学の卒業生であり、1600年にイングランドで生まれ〔familysearch.org 〕、17世紀初期にバージニア州チャールズシティに入植したリチャード・モスビーを先祖に持つ、イギリス起源のバージニア州名家の生まれだった。モスビーは父方の祖父ジョン・シングルトンに因んで名付けられた。

モスビーはマレルズ・ショップと呼ばれる学校で最初の教育を受けた。家族が1840年頃にバージニア州アルベマール郡シャーロッツビル近く)に転居した時、フライズ・ウッドの学校に通い、その後10歳でシャーロッツビルの学校に転校した。体が小さく虚弱だったために、学校に通っている間はいじめの対象になった。モスビーは引っ込み思案になったり自信喪失になる代わりに却って向かっていく方であったが、その自叙伝に拠れば戦っても一度も勝てなかったという。唯一負けなかった喧嘩は、大人に割って入られた時だった。その喧嘩相手とは友達になり、その後も友情が続いた。
1849年、モスビーはバージニア大学に入学し、古典教養を選択し、ワシントン文学協会および討論組合に入会した。好きなラテン語ギリシャ語および文学の成績は平均をかなり超えたが、数学が問題だった。3年次の時にモスビーと悪名高い威張りやジョージ・R・ターピンとの間に喧嘩が持ち上がった。モスビーはターピンが友人に向かって自分を侮辱したと聞きつけ、釈明を求める手紙をターピンに送った(これは当時南部の紳士が守る社交儀礼に添ったものだった)。ターピンは激怒し、次に出会ったときに「生で食ってやる!」と宣言した。モスビーは逃げ出すのは不名誉と考え、危険な事だったがターピンと対決しなければならないと決心した。

3月29日にこの二人は会した。モスビーはターピンに攻撃を止めさせることを期待して小さな「ペパーボックス」拳銃を携行していた。二人が向き合ったとき、モスビーが「貴方は宣言していたと聞いている...」と言うと、ターピンは頭を下げて突進してきたので、モスビーは拳銃を取り出して相手の首を撃った。彼は逮捕され2つの罪状(違法な発砲(最大量刑1年間の禁固と科料500ドルの軽罪)、悪意有る発砲(最大量刑10年間の懲役の重罪))で告訴された。ほとんど評決不能陪審となった裁判によって、モスビーは違法な発砲の罪で有罪とされ、シャーロッツビル監獄での1年間の禁固と科料500ドルを言い渡された。モスビーは後に裁判に掛けられる前に大学から放校されていたことが分かった。

モスビーは刑に服する間、その告発者であるウィリアム・J・ロバートソン検事との友情ができた。モスビーが法律を学びたいという希望を表明すると、ロバートソンはその法学蔵書の利用を認めてくれた。モスビーはその刑期の残りを使って法律を学んだ。判決が降りた直後から12人いた陪審員のうち9人がモスビーの恩赦の請願を始めた。この請願と大学の友人達からの請願に加えて、モスビーの両親から彼の虚弱な体質から考えて12ヶ月の禁固はその生命を危険に曝すという数人の医者からの宣誓陳述書を提出された。モスビーは寒くなると病気がちになり、小さくて不健康な監獄に苦しんだ。1853年12月23日、州知事はモスビーに恩赦を下し、1854年初めにはその科料も撤回された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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