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ジョルジュ・バタイユ : ミニ英和和英辞書
ジョルジュ・バタイユ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ジョルジュ・バタイユ : ウィキペディア日本語版
ジョルジュ・バタイユ

ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille、1897年9月10日 - 1962年7月8日)は、フランス哲学者思想家作家フリードリヒ・ニーチェから強い影響を受けた思想家であり、後のモーリス・ブランショミシェル・フーコージャック・デリダなどに影響を及ぼし、ポスト構造主義に影響を与えた。
==概説==
両親は無宗教であったが、本人の意志でカトリックに入信。敬虔なクリスチャンとして過ごす。その頃から神秘主義的な素養が芽生え始めている。その後フリードリヒ・ニーチェの読書体験を通して1920年代の始めまでには無神論者となった。「死」と「エロス」を根源的なテーマとして、経済学・社会学・人類学・文学・芸術・思想・文化・宗教・政治など多岐の方面にわたって執筆。発表方法も批評や論文・評論、対談集から詩・小説・哲学書まで様々な形態をとる。1922年に名門グランゼコールの一つである国立古文書学校を卒業後、パリ国立図書館に勤務していた。
哲学的には、レオン・シェストフから基礎をおっている〔Ouvres Completes, VIII, note par l'editeur, p. 563、バタイユとシェストフの関係については、『G・バタイユ伝(上)』、西谷修、中沢信一、川竹英克訳、河出書房新社、1991、pp. 78-86〕。シェストフとは、フョードル・ドストエフスキーとニーチェから出発して哲学の出発をした哲学者であり、バタイユはシェストフの本を共訳でロシア語から訳してもいる(1924年)〔ジョルジュ・バタイユ「自伝ノート」西谷修訳(『ユリイカ』青土社、1986年2月号、特集ジョルジュバタイユ、pp. 112-115)〕。この頃から、シュルレアリストたちと行動を共にし始める。精神的に変調をきたし始め、アドリアン・ボレルの精神分析の治療を始める(1925年から26年まで)。一年で打ち切られるが、ボレルがバタイユに書くように励まし勇気づけたことで、その結果『眼球譚』という作品が生まれる。1929年から雑誌『ドキュマン』の編集に携わり、グラヴィアを交えながら様々な論を展開する。アレクサンドル・コジェーヴヘーゲルに関する講義に、衝撃を受け、打ちのめされる〔バタイユが「ヘーゲル」を語る場合、主としてコジェーヴのヘーゲルである。コジェーヴのヘーゲル解釈は、バタイユのみならず、ジャック・ラカンにも影響が認められている。フランスにおけるヘーゲル受容については、以下を参照すべし。西山雄二「欲望と不安の系譜学――現代フランスにおける『精神分析学』の受容と展開」(『滝口清栄、会澤清編『ヘーゲル現代思想の起点』社会評論社、2008、所収)〕。ロード・オーシュ名義で発表された処女作「眼球譚」をはじめとして、トロップマン(『空の青』の登場人物名。Henri Troppmann。また、1869年頃に暗躍した大量殺人鬼の名前でもある。Jean-Baptiste Troppmann)、ルイ三十世、ピエール・アンジェリック等の様々な筆名を使ったことでも有名。
バタイユには、主として3つの作品群が存在する。
*第一に、神秘主義的、内的体験的であり、ときに一貫する論理的(科学的)な整合性を欠きながら思弁される、思想的文章群。代表としては、戦間期に書かれた『無神学大全』三部作(『内的体験』、『有罪者』、『ニーチェについて――好運への意志』、タイトルの「無神学大全」の語は中世の哲学者トマス・アクィナスの『神学大全』のパロディ)がある。この三部作は、断片形式で書かれていること、主として従来では「神秘体験」と称されてきた「体験」――語ることの困難な体験――を論理的な整合性を欠きながらも、語っていることがその特徴にある。
*第二に、バタイユがいうところの「学問的/科学的」に論理的明晰な、思想的文章群。『無神学大全』が「体験」を内在的に語るのに対して、ここでは外在的に、ときには歴史的に「体験」を探求している。『呪われた部分――普遍経済学の試み』(第一巻:『呪われた部分――有用性の限界』〔邦訳としては、二見書房のバタイユ著作集に所収されている。ちくま学芸文庫、中山元訳『呪われた部分 有用性の限界』は「呪われた部分」をつくるための草稿群である。ベンヤミン『パサージュ論』同様未完成の仕事。〕)、第二巻:『エロティシズムの歴史』、第三巻:『至高性』)が象徴的である。
*第三に、小説群。これは『眼球譚』、『空の青』、『わが母』などである。
バタイユが思想的にとりわけ影響を受けたのは、1920年代に読み始めたフロイトおよびニーチェ、そしてコジェーヴの講義以降終生彼を捉えることとなるヘーゲル、そして西欧の神秘家たち(アンジェラ・ダ・フォリーニョディオニシオス・アレオパギタアビラの聖テレサ十字架の聖ヨハネ、etc...)である。
神秘主義に傾倒する前は共産主義を伝統的な(制度的)至高性souveraineteに最も対抗できる運動として称揚し、1931年から後のフランス共産党の創設者の一人ボリス・スヴァーリヌ率いる「民主共産主義サークル」のメンバーになるなど革命的知識人の側面があった。この団体が解散された1934年でも一時的にトロツキスト団体に加入したことがあるが、バタイユはこの頃に「内的体験」や「瞑想の方法」に目覚めたとされる。
また、ニーチェ研究者としては、ナチスによるニーチェ思想の濫用を早い段階から非難し、著作においてマルティン・ハイデッガーを「(主体的な)至高性が足りない」「ドイツの教授先生」などと批判していた。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョルジュ・バタイユ」の詳細全文を読む




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