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ジャン・ジロー : ミニ英和和英辞書
ジャン・ジロー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジャン・ジロー : ウィキペディア日本語版
ジャン・ジロー[ちょうおん]

ジャン・アンリ・ガストン・ジロー(Jean Henri Gaston Giraud、1938年5月8日 - 2012年3月10日)は、メビウス(Moebius)のペンネームでも知られるフランス漫画家バンドデシネ作家)。40年にわたって続けられた西部劇漫画『ブルーベリー』シリーズでは「ジャン・ジロー」(ジル)を、より自由な筆致でSFファンタジー作品を手がける際には「メビウス」を用いた。特に後者の活動で国際的な名声を得ており、エルジェ以降もっとも重要なバンドデシネ作家とも言われている〔Screech, Matthew. 2005. "A challenge to Convention: Jean Giraud/Gir/Moebius" Chapter 4 in Masters of the ninth art: bandes dessinées and Franco-Belgian identity. Liverpool University Press. pp 95 - 128.〕。大友克洋宮崎駿谷口ジローなどへの直接的な影響を通じて日本の漫画界へも多大な影響を与えた。『エイリアン』をはじめとして、多数のSF映画にもデザイナーとして関わっている。
== 経歴 ==

=== 若齢期 ===
1938年パリ郊外のノジャン=シュル=マルヌで生まれる。3歳のときに両親が離婚し、以来フォントネー=スー=ボワの母親の家と祖父母の家を行き来しながら育った〔原(編)、214頁。〕。最初の絵画体験は祖父母の家で見た絵入り雑誌『世界一周』の挿絵であり、インタビューではそのなかでも特にギュスターヴ・ドレの名を挙げている〔。少年時代にはエルジェ、、、といった作家のバンドデシネのほか、当時フランスでさかんに出版されていたアメリカ、イタリアなどの外国産の作品を多く読み、『フラッシュ・ゴードン』『ザ・ファントム』などのアメリカのヒーローものに衝撃を受けている〔中里、199-202頁。〕。また15歳のときに父に薦められてオプタ社のSF雑誌『フィクション』を読み、これによってSFに興味を持つようになった〔。のちに「メビウス」の筆名を思いついたのも、『フィクション』誌や同社の『ギャラクシー』誌でメビウスの輪を題材にしたSF作品を読んだ体験からであった〔メビウス、サドゥール、112頁・116頁。〕。
公立学校卒業したジローは、16歳のときに通信制の美術講座エコール・アーベーセーに登録し、その後に入学、タピスリー科に入る〔。在学中の1956年、『ファー・ウェスト』誌に「フランクとジェレミー」が掲載され、以後1958年にかけて『シッティング・ブル』誌、『フリプネとマリゼット』誌、『クール・ヴァイヤン』誌などにウェスタンもの・ユーモアものの作品を発表した。当時のジローのスタイルはその後に弟子入りするの作風に強く影響されたものであった〔Giraud, Jean. "Introduction to King of the Buffalo by Jean Giraud". 1989. Moebius 9: Blueberry. Graphitti designs.〕。17歳のころ、学校を休学したジローは、再婚してメキシコに移住していた母親をたずねて同地を訪れ、ここで8ヶ月間をすごした。19世紀の西部劇の世界がまだ残っていたメキシコ滞在の経験は、ジローの西部劇への興味を強めるとともに、のちの「メビウス」としての作品にも様々な面で影響を及ぼしており、彼の自己形成に重要な意味を持つことになった〔〔メビウス、浦沢、夏目、30-31頁。〕。またメキシコではのちの作家活動において影響を受けることになるアメリカの漫画雑誌『マッド』をはじめて目にしている。
帰国後の1958年、装飾学校での同窓生であったジャン=クロード・メジエールとともに、当時スター作家であったジジェのもとを訪れる。その後兵役について2年半のあいだドイツアルジェリアに滞在〔。在軍中に軍事雑誌『5/5 Forces Françaises』の製作に協力する。帰国後の1961年、再びジジェを訪れて彼のアシスタントとなり、ジジェの西部劇作品『ジェリー・スプリング』(『』誌)の1エピソード「コロナド街道」のペン入れを1年ほどのあいだ担当した〔原(編)、215頁。〕。ジジェのもとでは絵の技術にとどまらず、絵に向き合う描き手としての姿勢といった根本的な部分についても多くを学んだという〔原、136頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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