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ジプシー・ロッテ : ミニ英和和英辞書
ジプシー・ロッテ[じぷしー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ジプシー : [じぷしー]
 【名詞】 1. Gypsy 2. (n) Gypsy
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ロッテ : [ろって]
 【名詞】 1. lotte 2. (n) lotte

ジプシー・ロッテ : ウィキペディア日本語版
ジプシー・ロッテ[じぷしー]
ジプシー・ロッテGypsy LOTTE)〔報道や著述などでは上記の他、愛称をもじった「ジプシー・オリオンズ」などといった呼称も使用されている。ジプシーは元々「移動型民族」を示す言葉だったが、のちに偏見差別的な表現として忌避され現在はロマと呼ばれるが、この当時はジプシーの語は問題視されていなかった。〕は、プロ野球千葉ロッテマリーンズが、ロッテオリオンズ時代の1973年から1977年の間、特定の本拠地球場を持たずに球団運営を行っていた様子を揶揄した呼称のひとつである。ここでは、この5年間とその前後の球団の事情について取り上げる。
この5シーズンの間、ロッテは首都圏宮城県仙台市などを転々としながら主催公式戦を開催していた。特定の本拠地を持たずに流浪する当時のロッテは「ジプシー球団」などと揶揄されていた。
== 本拠地不在と仙台開催 ==
''ジプシー・ロッテ以前の状況については東京スタジアム (野球場)を参照のこと。''
ロッテは大毎オリオンズ時代の1962年から東京スタジアムを本拠地としたが〔同年5月までは後楽園球場を本拠地とし、6月に東京スタジアムに移転。〕、1972年オフに閉鎖されたことによって本拠地を失うこととなった〔閉鎖の理由は当時経営権を持っていた国際興業社主の小佐野賢治がロッテに対し賃貸契約から球場を買い取っての一体運営への移行を求めたが、ロッテが費用対効果の悪化を理由に買取を拒否したためである。〕。翌1973年は引き続き東京都保護地域とし、首都圏に本拠を置く他球団の本拠地を使用することを前提に試合のスケジュールを決めたが、ロッテ自体が本拠とする球場が定まらず、試合の半数を後楽園球場明治神宮野球場および川崎球場の空き日程に埋めてもらったものの、それでも半数以上は開催地が未定のままだった。
当時、ロッテ球団は神宮球場を管理・運営する明治神宮外苑ヤクルトアトムズと折衝し、都内での準本拠地として年20試合程度の開催を計画していたが、ヤクルト球団に加え、大学野球に日程優先権がある影響で、試合数が6試合と大幅に削減され、その分を後楽園・川崎などに振り分けたといわれている〔パ・リーグどん底時代:激動の昭和48年(長崎出版・佐野正幸著)・パ・リーグ激動の昭和48年 信じられないことが次々と…… (日刊スポーツ出版社・佐野正幸著=左記著書の加筆増補版)〕
そこへ、宮城県仙台市にある宮城球場(現:楽天koboスタジアム宮城)を使用する案が浮上した。これは地元紙・河北新報をはじめとする宮城県内の企業15社の出資によるプロ野球興行会社「東北野球企業」の提案によるもので、年25試合の主催公式戦を仙台で開催するというものだった。当時首都圏や関東にはナイター設備を有する野球場が少なかったこともあってロッテはそれを受け入れた形となったが、本拠地移転を公式に実施する場合はプロ野球実行委員会(同委員会で4分の3以上の賛成票を得ること)やオーナー会議の承認を前年11月30日までに得ることが条件となるため、この年は登録上の保護地域は東京都のまま実質的なホームは宮城(ただし、正式な専用球場の届出はなかったことになる)という変則的なものとなった。
宮城球場での開幕戦は5月22日の近鉄バファローズ戦。これが宮城球場のナイター開きとなった。前日には宮城県庁前で盛大な前夜祭が執り行われ、お披露目パレードと合わせて20,000人以上の市民が詰め掛けた。また試合当日、宮城球場には定員を大幅に上回る33,000人〔ただし、当時のプロ野球は日本野球機構が管理するオールスターゲームや日本シリーズを除いて実数ではなく、公式記録員が目測で発表した大まかな数値での公表であるため、実際の有料入場者はそれよりも少ない。(観客動員に関連するものは以下同文)〕が押し寄せた。ロッテは13-0で圧勝し、仙台初戦を飾った。結局同年は宮城で26試合の主催公式戦を開催。同年監督に就任した金田正一の人気や太平洋クラブライオンズとの遺恨勃発(ライオンズとオリオンズの遺恨を参照)、さらに前期優勝争いに食い込み、6月の明治神宮野球場での日拓ホームフライヤーズとの3連戦に6万人ものファンも集まるなどもあいまって、前年310,000人にとどまった観客動員数は当時のパ・リーグ新記録となる946,500人と大幅に増加した。同年11月、ロッテは翌1974年から宮城県を本拠地とする旨を発表。12月21日に行われた実行委員会でロッテの保護地域を暫定的に東京都から宮城県に移転することが承認された。野球協約では「本拠地球場では主催公式戦の50%以上を開催しなければならない」と定められているが、ロッテは引き続き首都圏での開催試合数を確保するため、特例として試合数を変更できるよう併せて承認された。これに伴って1974年の開幕カードは宮城球場で開催され、同年宮城では27試合の主催公式戦が開催された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジプシー・ロッテ」の詳細全文を読む




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