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ジオット・ディ・ボンドーネ : ミニ英和和英辞書
ジオット・ディ・ボンドーネ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジオット・ディ・ボンドーネ ( リダイレクト:ジョット・ディ・ボンドーネ ) : ウィキペディア日本語版
ジョット・ディ・ボンドーネ[ちょうおん]

ジョット・ディ・ボンドーネ(、1267年頃-1337年1月8日)は中世後期のイタリア人画家、建築家。日本でも諸外国でも単にジョット(ジオット)と呼ばれることが多い。フィレンツェ共和国(現在のイタリア・トスカーナ州近辺)の首都フィレンツェ近郊の出身といわれており、その絵画様式は後期ゴシックに分類され、イタリア・ルネサンスへの先鞭を付けた偉大な芸術家と見なされている。
ジョットと同時代の画家ジョヴァンニ・ヴィッラーニはジョットのことを「この時代における最大の巨匠である。ジョットが描く人物やそのポーズはこの上なく自然に見える。その才能と卓越した技術によってジョットはフィレンツェのお抱え画家となった」と書き残している〔Bartlett, Kenneth R. (1992). ''The Civilization of the Italian Renaissance''. Toronto: D.C. Heath and Company. ISBN 0-669-20900-7 (Paperback). Page 37.〕。
生前から巨匠としての名声は一貫しており、16世紀後半の画家・伝記作家のジョルジョ・ヴァザーリはその著書で「それまでの洗練されていなかったビザンティン美術を徹底的に打ち壊し、現在見られるような現実味あふれる素晴らしい絵画をもたらした。200年以上にわたって忘れ去られていた絵画技術を現代に蘇らせた画家である」とジョットを絶賛している〔Giorgio Vasari, ''Lives of the Artists'', trans. George Bull, Penguin Classics, (1965)〕。ビザンティン様式が支配的だった西洋絵画に現実的、三次元的な空間表現や人物の自然な感情表現をもたらした。その絵画描写は、人物は背後の建物や風景との比例を考慮した自然な大きさで表現されている。こうした描写方法は、当時の描写法では革新的なもので、こうした点からジョットは「西洋絵画の父」ともいわれている。
ジョットの代表作は1305年に完成したパドヴァスクロヴェーニ礼拝堂の装飾画である。この一連のフレスコ壁画は聖母マリアイエス・キリストの生涯を描いたもので、初期ルネサンス絵画の中でも最高傑作のひとつといわれている。記録によればスクロヴェーニ礼拝堂の壁画を完成させたジョットは、1334年にフィレンツェからサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に新しく建てられる鐘楼のデザインを任された。その他にジョットについて伝わっている記録はほとんどなく、生年月日、生誕地、死没地、風貌、徒弟期間、作品の依頼主、アッシジサン・フランチェスコ大聖堂のフレスコ画は本当にジョットの作品なのかなど、様々なことが論争になっている。
== 作品 ==

=== 初期 ===
ジョットの生誕地は、おそらくロマニャーノ (Romagnano)、あるいはロミニャーノ (Romignano) という名称のコムーネであり、そこの丘の上にある農家で産まれたという古くからの説がある〔Sarel Eimerl, see below, cites Colle di Romagnano. However, the spelling is perhaps wrong, and the location referred to may be the site of the present ''Trattoria di Romignano'', in a hamlet of farmhouses in the Mugello region.〕。1850年以降になって、フィレンツェの北方35キロメートルに位置するヴェスピニャーノ(現在のヴィッキオ)の村にある城館こそがジョットの生誕地であるとする説が唱えられたが、これは商業的な宣伝を目的とした根拠のない主張に過ぎない。さらに最近になってジョットは鍛冶屋の息子としてフィレンツェで生まれたという研究結果が発表された〔Michael Viktor Schwartz and Pia Theis, "Giotto's Father: Old Stories and New Documents," ''Burlington Magazine,'' 141 (1999) 676-677 and idem, ''Giottus Pictor. Band 1: Giottos Leben,'' Vienna, 2004〕。ジョットの父親の名前はボンドーネで、現存している公式な記録に「裕福な人物」と記載されている。多くの著述家が「ジョット」は本名であると考えているが、アンブロジョット (Ambrogiotto)、アンジェロット (Angelotto) の略称だったという説もある〔Sarel Eimerl, ''The World of Giotto'', Time-Life Books.〕。
ジョットの死没年は、フィレンツェの広報担当で詩人でもあったフィレンツェ在住のアントニオ・プッチ (:en:Antonio Pucci) が書いたジョットの業績をたたえる詩の中に、ジョットは70歳で死去したという記述があることを根拠としている。しかしながら、「70」という単語がこの詩の中でちょうどいい韻を踏んだ言葉になっていることから、プッチが創作上のテクニックとして「70」を選んだという可能性もある〔。
ジョルジョ・ヴァザーリが書いた、ルネサンスの芸術家に関する重要な伝記『画家・彫刻家・建築家列伝』によると、ジョットは周りの誰からも愛される快活で知的な羊飼いの少年だったとされている。伝記には、フィレンツェ出身の巨匠チマブーエがジョットが岩に描いた羊を偶然目にし、その羊があたかも生きているかのように描写されていたため、チマブーエはジョットの父親にかけ合ってジョットを弟子にしたと書かれている〔。チマブーエはシエーナで活動していたドゥッチョと並んで、当時のもっとも高名な画家だった。
ヴァザーリはジョットの技量について多くのページを割いている。たとえば、チマブーエが工房を留守にしている間に、ジョットがハエをチマブーエの作品に描いたところ、戻ってきたチマブーエが本物のハエと勘違いして何度も絵筆で追い払おうとしたというエピソードは有名である。他のエピソードとして、教皇がジョットに使いを出し、技量を確認するために何か描いてみるよう要求したことがある。ジョットは赤い絵の具でコンパスを使ったかのような正確な円を描き、それを持って帰って教皇に見せるよう使いに頼んだというものもある〔。
しかしながら、現在では多くの学者がジョットの徒弟時代の記録は信用できないものであり、チマブーエの弟子だったというヴァザーリの著述は伝説に過ぎないと考えている。これはジョットがチマブーエの弟子ではないという古い記録が残っているためである〔Hayden B.J. Maginnis, "In Search of an Artist," in Anne Derbes and Mark Sandona, ''The Cambridge Companion to Giotto,'' Cambridge, 2004, 12-13.〕。ジョットの芸術は13世紀後半にローマに集っていた画家たちの作品に大きな影響を与えている。当時のローマではチマブーエも活動していた可能性があり、ピエトロ・カヴァリーニに代表されるフレスコ画家の一派もローマで活動していた。フィレンツェ出身の有名な彫刻家、建築家のアルノルフォ・ディ・カンビオもこの当時ローマに滞在していた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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