翻訳と辞書
Words near each other
・ ジェーン・ブリッジ
・ ジェーン・ブーリン
・ ジェーン・ベヤジバ
・ ジェーン・ベル
・ ジェーン・ホロックス
・ ジェーン・マチ
・ ジェーン・マンスフィールド
・ ジェーン・マーセット
・ ジェーン・マーチ
・ ジェーン・マープル
ジェーン・モリス
・ ジェーン・モンハイト
・ ジェーン・ラッセル
・ ジェーン・リンチ
・ ジェーン・ルー
・ ジェーン・レヴィ
・ ジェーン・ローゼンタール
・ ジェーン・ローダー
・ ジェーン・ワイアット
・ ジェーン・ワイマン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ジェーン・モリス : ミニ英和和英辞書
ジェーン・モリス[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジェーン・モリス : ウィキペディア日本語版
ジェーン・モリス[ちょうおん]

ジェーン・モリス(Jane Morris, 旧姓バーデン(Burden), 1839年10月19日 - 1914年1月26日)は、イギリスの絵画モデルである。彼女は、ラファエル前派の理想像そのものであり、夫であったウィリアム・モリスダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのモデルでありミューズだった。
== 生涯 ==
ジェーン・バーデンは馬丁のロバート・バーデンとその妻アン・メイジーの娘としてオックスフォードに生れた。ジェーンが生れた頃、両親はオックスフォードのセント・ピーター・イン・ジ・イースト教会の教区内、ホリウェル・ストリート裏手のセント・ヘレンズ・パッセージに住んでいた。この場所にはジェーンの生誕の地であることを示すブルー・プラーク が掲げられている〔Lisle, Nicola, Cinderella story. ''Oxfordshire Limited Edition'', no. 249, pages 23–25, October 2007; and picture of blue plaque 〕。ジェーンの母アンは教育を受けておらず、召使として奉公するためにオックスフォードに来たものと思われる。アンの幼少時について詳細は明らかでないが、極貧の中に育ったことは確かである。
1857年10月、ジェーン・バーデンは妹のエリザベス("ベッシー")とオックスフォードでドゥルリー・レーン劇団の芝居を観劇していた時、ちょうど劇場に来ていたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとエドワード・バーン=ジョーンズ に見出された。ロセッティとバーン=ジョーンズは、当時、アーサー王伝説を題材にしてオックスフォード・ユニオン壁画を制作していたグループのメンバーだった。ジェーンの美しさに感銘を受けた二人は彼女にモデルになるよう依頼した。ジェーンはまず、王妃グィネヴィアの壁画を制作していたロセッティのモデルになり、次に油彩『麗しのイズー』''La Belle Iseult''(テート・ギャラリー所蔵)を制作していたモリスのモデルになった。モリスもロセッティと同じく、ジェーンをモデルにして王妃グィネヴィアを描いたのである。この間にモリスはジェーンと恋に落ち、婚約した。
ジェーン・バーデンはほとんど教育を受けておらず、おそらく女中奉公にでるべく育てられたものと見られている。モリスと婚約した後、彼女は個人教授を受けた。ジェーンは鋭い知性を持っており、自分を創り変えていった。貪るように本を読み、フランス語と、のちにはイタリア語にも流暢になった。彼女はまたピアノの演奏も巧みであり、クラシック音楽の造詣も深かった。ジェーンの仕種や話しぶりが洗練されたものになったので、同時代の人々は彼女のことを「女王のような」と形容するほどであった。晩年の彼女は上流階級に加わったとしても困らないほどの気品を身につけていた。バーナード・ショーの劇『ピグマリオン』 ''Pygmalion'' (1914年)の登場人物、ヒギンズ夫人のモデルとも言われている。
ジェーンは、1859年4月26日、オックスフォードのセント・マイケル教会においてウィリアム・モリスと結婚した。当時、彼女の父親はオックスフォード、ホリウェル・ストリート65番地の厩舎で別当をしていたという。
ジェーン・バーデンとウィリアム・モリスはまず、ケント、ベクスレイヒースのレッドハウスに住んだ。この間に彼らはジェーン・アリス(”ジェニー”)(1861年1月生まれ)と後に父の本の編集者になるメアリー(”メイ”)(1862年3月-1938年)の二人の娘をもうけた。この後、一家はロンドンのクイーンズ・スクエアに移り、また後に、主たる住居となるハマースミスのに移った。1871年、モリスとロセッティは、オックスフォードシャーウィルトシャーの州境にあるグロスタシャーのを共同名義で賃借した。この屋敷は現在一般に公開されている。契約してすぐに、モリスはアイルランドに向けて旅立った。ロセッティとジェーンはこの美しい屋敷に残り、家具調度を整えながらその夏を共に過ごした。の賃借はジェーンとロセッティの関係に配慮して、彼ら全員をスキャンダルから守るためのものであったと考えられている。
ジェーン・モリスは画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティに深い愛情を感じるようになり、また、彼のお気に入りのミューズになった。二人の関係は1865年に始まり、親密さの程度は変化したが、1882年のロセッティの死まで続いたと考えられている。彼らは深い愛情で互いに結びついていた。ロセッティはジェーンからインスピレーションを得て詩を書き、絵画では、彼の後期の最高傑作のいくつかを描いた。ジェーンはロセッティがクロラール依存であることに気づき、彼の不眠症治療を助けた。この件以来ジェーンはロセッティから一定の距離をおくようになったが、彼が1882年に亡くなるまで二人は連絡を取りあった。
1884年、ジェーンは、親しい友人であり、後にカーライル伯爵夫人になるロザリンド・ハワードの家で催されたパーティで、詩人で政治活動家のウィルフレッド・スキャウェン・ブラントと出会った。二人はすぐにひかれ合ったとされており、遅くとも1887年までには恋愛関係になっている〔Mancoff, p.98〕。 彼らの性的な関係は1894年まで続き、その後もジェーンの死まで二人は親しい友人だった。
ジェーン・モリスはアイルランド自治運動の熱心な支持者であった。死の数ヶ月前、彼女は娘たちの将来のためにを買い取ったが、その屋敷を再び訪れることはなかった。
ウィリアム・モリスは1896年10月3日、ロンドン、ハマースミスのにて死去。ジェーンは、1914年1月26日、バースのブロック・ストリート5番地に滞在中に死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジェーン・モリス」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.