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シャルル=ヴァランタン・アルカン : ミニ英和和英辞書
シャルル=ヴァランタン・アルカン[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

シャルル=ヴァランタン・アルカン : ウィキペディア日本語版
シャルル=ヴァランタン・アルカン[らん]

シャルル・ヴァランタン・アルカン
Charles Valentin Alkan1813年11月30日パリ - 1888年3月29日パリ)は、フランスロマン派作曲家ピアニスト
== 生涯 ==

=== 概略 ===

アルカンは本名をシャルル・ヴァランタン・モランジュ (Charles Valentin Morhange) といい、パリのブラン・マントー通り〔訳注:歴史地区であるマレ(Le Marais )の第4地区に位置する通り。(Rue des Blancs-Manteaux)〕でユダヤ系の家庭に生まれた。父はアルカン・モランジュ(1780年1855年)、母はジュリー(Julie)・モランジュ(旧姓 アブラアム Abraham)である〔Smith (2000)〕。彼は6人姉弟の2番目であり、姉と4人の弟がいた。アルカンは音楽家であった父の名であり、彼を含む兄弟すべてが音楽家としてアルカンを名乗った。パリのユダヤ人居住区であったマレ地区の彼の自宅は、パリ音楽院を目指す子どもたちが通う音楽予備校であり、マルモンテルラヴィーナらが通っていた〔Antoine-François Marmontel, Les pianistes célèbres : silhouettes et médaillons, Paris: Heugel, 1878, p. 128 〕。弟のナポレオン(Napoléon)は音楽院でソルフェージュ教授となり、別の弟のマクシム(Maxim)はパリの劇場で軽音楽を作曲する仕事に就いた。姉のセレスト(Céleste)もピアニストだった。
アルカンは生涯をパリ周辺で過ごした。彼の外遊で知られているものは、1833年から1834年イングランドへの演奏旅行と、家族の用事で1840年メスへ赴いたことだけである。
幼くして神童といわれ、6歳でパリ音楽院に入学、ピーエル・ジョゼフ・ギヨーム・ジメルマン〔訳注:1785年生まれ、フランスのピアニスト、作曲家、音楽教師。グノーフランクビゼートマの作曲の師でもあった。グノーは彼の娘と結婚しており、義理の父である。パリ音楽院のピアノ科長当時、国籍を理由にゴットシャルクアメリカ人)を演奏を聴きもせずに門前払いした。(:ja:ピエール・ジメルマン とリンク -->" TITLE="Pierre-Joseph-Guillaume Zimmermann">Pierre-Joseph-Guillaume Zimmermann)〕のピアノクラスに学んだ。7歳にしてソルフェージュ、ピアノ伴奏、作曲、オルガンでプルミエ・プリ(一等賞)を得る。7歳半で初めての公開演奏会を行ったが、この時彼はヴァイオリニストとして出演した。ピアニストとしてのデビューは12歳の時で、私的な家庭演奏会で自作を何曲か披露した〔Nicholas (2007)〕。彼の作品番号1番は1828年、14歳で発表した作品であった。1829年に室内楽のトリオを結成したが、その時のチェロ奏者はショパンの親友であったオーギュスト・フランコムであり、彼がアルカンにこのポーランドの青年を紹介した可能性が指摘されている。〔Ronald Smith, Alkan, the man, the music, London: Kahn & Avril, 2000, p. 18.〕
アルカンは20代になって、教育に携わり、上流階級の集まりで演奏会を行うなどし、リストジョルジュ・サンドヴィクトル・ユーゴーらと友好関係を築いた。1838年、25歳にして彼の経歴は頂点に達する。彼は自らの主催した演奏会で賛助出演したショパンとしばしば共演し、リスト、タールベルクカルクブレンナーのライバルのヴィルトゥオーゾとして称されていた。リストはアルカンについて、自分が知る中で誰よりも優れたピアノ技巧を有していると述べている〔Lindeman (1999), 111〕。この頃から6年の間、アルカンは私的なレッスンと作曲だけに専念するが、これは彼の子ではないかと目されるエミール・ドゥラボルド〔訳注:1839年生まれ、フランスのピアニスト、作曲家。アルカンやモシェレスヘンゼルトの弟子であり、サン=サーンスは彼に「ピアノ協奏曲第3番」を捧げている。また、フェンシングの選手であり、絵画の世界ではマネの親しい友人であった。(Élie-Miriam Delaborde)〕の誕生、乳幼児期と期を同じくしている。その後、アルカンは1844年に演奏会に復帰している。1842年にショパンがスクアール・ドルレアン(Square d'Orléans)にジョルジュ・サンドと共に越して来て隣人同士となっており〔Gibbons (2002)〕、1849年のショパンの死後はその弟子の多くを引き取った。
1848年、アルカンは大きな挫折を経験することになる。パリ音楽院ピアノ科長であったジメルマンの引退に伴う後継者争いに敗れたのである。ロビー活動に精を出してアルカンは任用を期待していたが、音楽院学長のオーベールはジメルマンの後継に、かつてはアルカンの弟子であったマルモンテルを据える決定をする。この件や親友のショパンの死に直面して失意に沈んだことで、アルカンは公衆の面前での演奏ができなくなったのだろう。1851年シナゴーグオルガニストになったのもつかの間、すぐに職を辞してしまう。早くから技術を体得して名声を手にした彼であったが、1853年の2回の演奏会を除くと、25年もの実質的な隠居生活に入ったのである〔Eddie (2007), 11, 13〕。
1861年ヒラーに宛ててしたためた手紙の中で、アルカンはこう記している。

私は日ごとに人間嫌い、女性嫌いになってきています・・・行動に移す価値のあること、良いこと、役に立つことなどなにもありません・・・私自身を捧げるに足る人物などいないのです。私は自分の置かれた状況をどうしようもなく悲しく、惨めに感じています。私は音楽を作ることにすら意味や目的を見出せなくなり、魅力を感じられなくなっています。

このような状況ではあったものの、アルカンは友人たちと交流し、作曲と出版を継続した。ドイツスコットランド人の音楽学者であるフレデリック・ニークス〔訳注:1845年生まれ、ショパンやシューマンの伝記を記した。(Frederick Niecks)〕はアルカン宅の守衛に厳しく面会を拒否された数日後、エラール〔訳注:セバスチャン・エラール創始のフランスのピアノ製造会社。エラールが考案した仕組みの多くは、現代のピアノにも受け継がれている。(Sébastien Érard)〕のサロンで彼を見かけている。ニークスはその出会いについて、こう述べている。「私に対する対応は礼儀正しいだけでなく、大層親しげなものであった。」またアルカンはヒラー〔現在、書簡はフランクフルトに保管されている〕やスペイン人のピアニスト、作曲家であったサンティアーゴ・マサルナウ〔訳注:1805年生まれ、後年は宗教への帰依を強め、貧しい人びとへの奉仕や宗教音楽の作曲を行った。(Santiago Masarnau Fernández)〕〔These letters are now in the Spanish Historical Archives .〕との文通を続けた。マサルナウはパリでアルカンと知り合い、作品16の「3つの華麗なる練習曲(スケルツォ集) ''Trois études de bravoure''」の献呈を受けている。
ジャック・ギボンズはアルカンの性格について、次のように記している。

アルカンは知的で、活発で、機智に富んだ温かみのある人物であった(これらの性格は全て彼の音楽に現れている)。彼の唯一の欠点は生き生きとした想像力を持ち続けていたことだった。時おり奇行に走ったようだが(それでも他の「高く位置づけられる」芸術家たちに比べれば穏やかな方だ!)、それも主に彼の過敏な基質に根ざしたものだったのである〔。

晩年、1873年からアルカンはエラールのピアノ展示場で年に6回の「小コンサート 'Petits Concerts'」を開くようになる。そこでは自作だけではなく、バッハ以降の彼の好みの作曲家の作品を取り上げていた。こういった演奏会では、時に彼の姉弟が助っ人となることもあり、出席者の中にはダンディもいた。この演奏会は1877年まで続けられた。
アルカンが自宅に閉じこもって一時は聖書ユダヤ教の経典タルムードの研究に没頭した時期のことはあまり分かっていないが、それ以外にも足取りのつかめない期間が存在する。ヒラーとの間に交わされた書簡から分かるのは、アルカンが旧約聖書新約聖書のいずれも、原語からフランス語への翻訳を完成させていたということである。この聖書は、アルカンの多くの作品と同様に完全に失われてしまっている。失われた作品には、弦楽六重奏曲やフルオーケストラによる交響曲ロ短調があり、アルカンからその楽譜を見せられたレオン・クロイツァー(Léon Kreutzer)の1846年の論文にそれらの記述がある〔Conway (2011), 208, 236〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シャルル=ヴァランタン・アルカン」の詳細全文を読む




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