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シャルル・ラヴァル : ミニ英和和英辞書
シャルル・ラヴァル[らヴ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラヴ : [らヴ]
 【名詞】 1. love 2. (n) love

シャルル・ラヴァル : ウィキペディア日本語版
シャルル・ラヴァル[らヴ]

シャルル・ラヴァル(, 1861年3月17日 - 1894年4月26日)は、フランスのの画家。
== 生涯 ==

1861年、パリで、建築家の父とポーランド人の母との間に生まれた。レオン・ボナフェルナン・コルモンに師事した後、1880年のサロンに牧歌的な風景画「バルビゾンの農場」を出品した。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックエミール・ベルナールルイ・アンクタンと親交を持った。
1886年ブルターニュポン=タヴァンポール・ゴーギャンと出会い、親交を深めた。1887年には一緒に異国趣味を追求してパナマに赴いた。そこでラヴァルは、レオン・ボナからの教えに基づいてアカデミズム風の肖像画を制作している〔Lettre de Paul Gauguin à Mette Gad, Panama, début mai 1887, dans Maurice Malingue, ''Lettres de Gauguin à sa femme et à ses amis'', Paris, 1947, p. 122.〕が、現在では全て失われている〔Julieta de Arango et Oscar Velarde, ''El Istmo de Panama a través de la expresion artistica de extrajeros y nacionales en el siglo XIX'', ''Revista Loteria'', octobre 1982, p. 318-319.〕。その後2人は事情によりパナマを出ざるを得なくなり、カリブ海マルティニーク島に向かった。ここでラヴァルは明るい色彩の風景画のシリーズを仕上げた(長い間、これはゴーギャンの作品とされてきた)。
しかし、赤痢にかかり、精神の病を患って自殺未遂さえ起こすに至り、ラヴァルは1888年、ゴーギャンに続いてマルティニーク島を離れることになった。ラヴァルは1888年7月、ポン=タヴァンでゴーギャンと再会している〔Lettre de Paul Gauguin à Vincent Van Gogh, Pont-Aven, 28 juillet 1888, dans Douglas Cooper, ''45 lettres de Paul Gauguin à Vincent, Théo et Jo Van Gogh'', Amsterdam, 1983, p. 217.〕。ラヴァルが持ち帰った油彩画、水彩画はゴーギャンの関心を惹きつけ〔ゴーギャンよりゴッホ宛書簡(1888年7月28日)。ゴーギャンは「これこそ芸術だ」と書いている。〕、同時にゴーギャンはベルナールとも意気投合した。ベルナールの「草地のブルターニュの女性たち」とゴーギャンの「説教の後の風景(天使とヤコブの闘い)」には、純粋ではっきりした色彩、遠近法の排除、単純化した形、日本画風の構図など、綜合主義が表明されており、ラヴァルの「市場に行く」もこれに影響を受けている。同じ頃に制作されたブルターニュの「風景」は、抽象的なパターンへの指向を示している。

ファイル:Laval Femmes au bord de la mer.jpg|「海辺の女たち」1886年、オルセー美術館
ファイル:Laval Allant au marché.jpg|「市場に行く」1888年、インディアナポリス美術館
ファイル:Laval Paysage.jpg|「風景」1888年、。

ポン=タヴァンでは、ラヴァルは結核を病み、ほとんど絵の制作を行っていない。その中で、アルルフィンセント・ファン・ゴッホと絵の交換をしており、ゴッホは、送られたラヴァルの「自画像」を「とても素晴らしい」と賞賛している〔フィンセント・ファン・ゴッホより弟テオ宛書簡719 (1888年11月11日又は12日、アルル、1958年版書簡集562)。〕。
その後、1889年パリ万国博覧会に合わせて行われたに、ゴーギャン、ベルナール、アンクタンらとともに、自作10点を出品している。これはナビ派の画家たちに影響を与えた。
ラヴァルの健康状態は更に悪化していった。1889年頃には、より宗教的な象徴主義に傾斜していった。1890年、彼はエミール・ベルナールの妹マドレーヌと婚約した。しかし、マドレーヌに好意を持っていたゴーギャンはこれに激怒し、ラヴァルを罵った〔Lettre de Paul Gauguin à Émile Schuffenecker, Le Pouldu, octobre 1890, dans Victor Merlhes, ''De Bretagne en Polynésie - Paul Gauguin, pages inédites'', Taravao, 1995, p. 53-54.〕。1893年まで制作を続けたが、ベルナールと同様、伝統的絵画に回帰していった。
1894年、結核の悪化によりパリで死去した。33歳であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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