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シピフル・シコー : ミニ英和和英辞書
シピフル・シコー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

シピフル・シコー : ウィキペディア日本語版
シピフル・シコー[ちょうおん]

シピフル・シコー(Sipihr Shikoh, 1644年10月3日 - 1708年7月2日あるいは3日)は、北インドムガル帝国の皇子ダーラー・シコーの四男〔上の兄二人が夭折したため次男としても扱われる。〕。母はナーディラ・バーヌー・ベーグム
==生涯==
1644年10月3日ムガル帝国の皇子ダーラー・シコーナーディラ・バーヌー・ベーグムとの間に生まれた〔Delhi 6 〕。
1658年6月8日、シピフル・シコーは皇位継承戦争に参加していた父ダーラー・シコーとともに、叔父のアウラングゼーブムラード・バフシュの連合軍と戦ったが敗れた(サムーガルの戦い)〔ベルニエ『ムガル帝国誌』、p.79〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.230〕。そののち、父とともに長い逃避行を共にした。
1659年3月、シピフル・シコーは父ダーラー・シコーともに最後の戦いとして、アジアウラングゼーブとアジメールで交戦したがこれも敗れ(アジメールの戦い)、またしても逃げざるを得なかった〔ベルニエ『ムガル帝国誌』、p.131〕〔ベルニエ『ムガル帝国誌 』、p.132〕。
各地を転々としたのち、最終的に父ダーラー・シコーがかつて命を助けたアフガン人ジーワン・ハーンのもとを頼ろうとした。そのとき、シピフル・シコーはその足元に身を投げ、「あのパターン人の領土には入らないでください」、と神にかけて懇願したが、父が聞き入れることはなかった〔ベルニエ『ムガル帝国誌』、p.141〕。
6月21日朝、ジーワン・ハーンは案の定裏切り、シピフル・シコーは父ダーラー・シコーとともに捕えられ、ラホールを経てデリーへと送られた〔〔ベルニエ『ムガル帝国誌』、p.142〕。
9月11日、シピフル・シコーと父ダーラー・シコーはみすぼらしい象に乗せられて、デリーを引き回されたが、同伴していたジーワン・ハーンが人々から呪いの言葉を浴びせられ、一部から投石攻撃を受けたことから、アウラングゼーブは人々とその日のうちに処遇を決めた〔ベルニエ『ムガル帝国誌』、p.145-146〕。沙汰の結果、父ダーラー・シコーは処刑、シピフル・シコーはグワーリヤルに送られることとなった。
12日、シピフル・シコーは父ダーラー・シコーとともに取り押さえられ、目の前で父の処刑を見せつけられた。のち、彼はグワーリヤルへと送られ、グワーリヤル城に幽閉された。
1660年初頭、シピフル・シコーの幽閉されていたグワーリヤル城に兄のスライマーン・シコーが幽閉されたが、彼はアヘンが溶かされた水(ポースト)を飲まされ続け、翌1661年5月に死亡した〔。
一方、シピフル・シコーは何もされることはなく、1673年2月9日にはアウラングゼーブの娘ズブダトゥンニサー・ベーグムと結婚し、1675年にようやく長い幽閉生活から解放された〔。
1676年7月23日には、二人の間に男子が生まれたが、同年12月に彼は死亡している〔。
1708年7月2日あるいは3日、シピフル・シコーはデリーで死亡した〔。なお、その前年3月にはアウラングゼーブも死亡していた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シピフル・シコー」の詳細全文を読む




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