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シトカの戦い : ミニ英和和英辞書
シトカの戦い[しとかのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

シトカの戦い : ウィキペディア日本語版
シトカの戦い[しとかのたたかい]

シトカの戦い(シトカのたたかい、英:Battle of Sitka)は、1804年にノヴォアルハンゲリスク(、現シトカ)で起こったヨーロッパ人とアラスカ先住民族との間の最後の大きな戦闘である。この2年前のロシア交易拠点の破壊に対応して行われた。戦いに加わった先住民族はシトカ島(バラノフ島)のトリンギット族キクスアディ派であり、ロシアはロシア・アメリカン会社(露米会社)の代理人であった。ロシアの最初の攻撃時に遠征隊長のアレクサンドル・バラノフが重傷を負って反撃されたので、海軍の応援を頼み、トリンギット族のシスキノーウ砦に艦砲射撃を加え、数日間後に周辺の森の中にトリンギット族を追い出した。ロシアの勝利は決定的なものであり、トリンギット族は先祖伝来の土地から恒久的に追い出される結果となった。トリンギット族は北方に逃げて隣接するチチャゴフ島に新しい集落を造った。
両者の間の敵愾心は大方は消えていったが、先住民族からの散発的なロシア開拓地に対する攻撃が1858年頃まで続いた。戦場跡はシトカ国定歴史公園として保存されてきた。2004年9月、戦闘から200周年を記念し、ロシア側指導者バラノフの直系子孫が出席して、キクスアディ戦士の子孫と伝統的な「泣きの儀式」を行って、亡くなった先祖を公式に弔った。


== 背景 ==
先住民族トリンギット族のキクスアディ(フロッグ/レイブン一族)派は、1万年にも亘ってシトカ島(今日のバラノフ島)を含むアラスカ・ペンハンドルの部分を支配してきた。ロシア・アメリカン会社の前身であるシェリコフ=ゴリコフ会社の支配人アレクサンドル・バラノフは、新しいラッコの狩り場を求めて1795年に「エカテリーナ」号に乗ってこの島を初めて訪れた。バラノフは島で交易を行う際に「侵入者」を防ぐため、土地に入る権利を得る代償をトリンギット族に少額ながら支払った。
1799年5月25日、バラノフとロシア・アメリカン会社の雇員100名(先住民の妻も伴っていた)の移民集団がロシア帝国海軍のカッター「オルガ」とスループ・オブ・ウォー「コンスタンチン」に乗船してシトカ湾に到着した。これには550艘のバイダルカ船の船隊が付いており、600名ないし1,000名のアレウト族護衛を載せていた。この一団は先住民族との摩擦を避けるためにトリンギット族の造ったノーウ・トライン(大きな砦)のある戦略的に重要な丘の横は通過し、トリンギット族集落の北7マイル (11 km)の2番目に良いと思った地点に上陸した。カトリアンスキー湾のロシア人開拓地、セント・ミカエル砦は、今日では「スターリー・ギャバン」湾すなわち「古い港」として知られている。その基地には、大きな倉庫、鍛冶屋、牛小屋、兵舎、防御柵、監視小屋、浴場、狩人用宿舎およびバラノフの住居が備えられた。
「コロシ」(トリンギット族をロシア人はこう呼んだ)は当初は新参者を歓迎したが、直ぐに敵対心が成長していった。キクスアディ派はロシア交易業者が先住民の女性を妻にする習慣に反発しており、「シトカ」の者を部外者の「カルガ」すなわち奴隷と見ていた他のトリンギット族から嘲られていた。おそらくこの種族はアレウト族のラッコなどを狩る技能が優れていることを羨んでもいた。キクスアディ派はロシア人が居続けることはその皇帝への忠誠を求めているということであり、それ故に島の資源について2つの集団間の競争が激化して奪い合いになる労働力の提供を期待されていることを認識するようになった。
1799年の冬、トリンギット族による基地の攻撃は何度か失敗し、植民地経営は繁栄していた。バラノフは1800年に急用でロシア領アメリカの当時の首都コディアックに戻ることになった。ワシリー・G・メドベドニコフが指揮者となり、22名のロシア人と55名のアレウト族が基地に残ることになった。1802年春、セント・ミカエル砦の住人は29名のロシア人、3名のイギリス人脱走兵、200名のアレウト族および数名のコディアックの女性となった。ハドソン湾会社の後援でイギリス人が北方アングーンのトリンギット族と1801年に会合を持ち、毛皮の排他的交易権と引き替えに武器弾薬を供給しているとの噂が立った。
1802年6月20日、カースダ・ヘーン(インディアン川)と近くのクラブ・アップル島のトリンギット族戦士の一団が、「悪魔の化粧」をし、木彫りの動物仮面を被ってロシアの基地を攻撃した。先住民族は槍や当時として最新式の火器で武装していた。火器については、イギリスフランススペインおよびアメリカの船がインサイド・パッセージをしばしば訪れ売り渡していた。シュコールイェール酋長に率いられた攻撃部隊は20名のロシア人と130名近いアレウト族の男性を皆殺しした。兵舎や倉庫を略奪して火を付け、建造中の船を破壊し、残った女子供を奴隷にした。

数名のロシア人とアレウト族が狩りのために基地を離れており、また森に逃げ込んだ者もいて、湾内に停泊していた2隻の外国船に辿り着いて攻撃のことを知らせた。簡単な交渉によって、トリンギット族はボストン船籍のアメリカ船「アラート」の指揮官に生き残った者の引き渡しに合意した。やはり近くに停泊していたイギリス船「ユニコーン」のジェイムズ・バーバー船長は、シュコールイェール酋長以下数名の戦士を船上に誘い、ブリッグ船内に拘留して、結果的に残っていた1名のロシア人と18名のアレウト族と交換した(襲撃で奪った4,000枚のラッコ生皮も取った)。

「ユニコーン」はコディアックに向かい、6月24日に生き残った者を届けるとともにバラノフに襲撃について知らせた。バーバーは開拓者を引き渡すことと引き替えに1万ルーブルを絞り取った(それでも元々の要求の20%に過ぎなかった)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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