翻訳と辞書
Words near each other
・ サウスカロライナ州の都市圏の一覧
・ サウスカロライナ州会議事堂
・ サウスカロライナ州副知事
・ サウスカロライナ州独立共和党
・ サウスカロライナ州知事
・ サウスカロライナ州知事の一覧
・ サウスカロライナ州知事選挙
・ サウスカロライナ州議会議事堂
・ サウスカロライナ州連合改革党
・ サウスカロライナ州選出のアメリカ合衆国上院議員
サウスカロライナ植民地
・ サウスカロライナ植民地総督
・ サウスカロライナ独立共和党
・ サウスカロライナ級戦艦
・ サウスカロライナ連合改革党
・ サウスカロライナ邦
・ サウスキャロライナ
・ サウスキャロライナ州
・ サウスキングスタウン (ロードアイランド州)
・ サウスゲイト


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

サウスカロライナ植民地 : ミニ英和和英辞書
サウスカロライナ植民地[-しょくみんち]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

植民 : [しょくみん]
  1. (n,vs) colonization 2. colonisation
植民地 : [しょくみんち]
 【名詞】 1. colony 
: [たみ]
 【名詞】 1. nation 2. people 
: [ち]
  1. (n,n-suf) earth 

サウスカロライナ植民地 : ウィキペディア日本語版
サウスカロライナ植民地[-しょくみんち]
サウスカロライナ植民地(-しょくみんち、英:the Province of South Carolina)は、現在のアメリカ合衆国サウスカロライナ州の前身であり、1729年からイギリスが直轄植民地とした。1776年アメリカ独立宣言に同調して独立し、アメリカ合衆国に加盟することになった。
サウスカロライナ植民地の歴史は16世紀に遡り、スペインフランスが探検隊を繰り出して植民地化を試みたが、16世紀末までに放棄していた。1629年イングランドチャールズ1世が法務長官のロバート・ヒース卿に、北緯31度線から36度線の間のすべてのものについて勅許を与えた。1663年チャールズ2世は、8人の貴族を植民地領主としてこの土地を与えた。当初は現在のノースカロライナ州を含むカロライナ植民地と称されており、チャールストンに行政府を置いていた。1712年、ノースカロライナに別の行政府が作られた。1719年、国王はサウスカロライナ植民地を、実際には植民地にいない植民地領主から買い上げ、そこを支配させる総督を任命した。1729年までに8人の植民地領主のうち7人からの買い上げが終わり、ノースカロライナ植民地とサウスカロライナ植民地の両直轄植民地が成立した。

植民地時代のカロライナはスペインや先住民族、中でもヤマシー族、アパラチー族およびチェロキー族との多くの戦争に関わることになった。1715年から1717年にかけてのヤマシー戦争では、インディアンの攻撃によって滅亡寸前の状態になった。カロライナ奥地にはペンシルベニアバージニアから流れてきたスコットランドアイルランド系の開拓者が多く、海岸に近い低地カロライナには富裕なプランテーション所有者が多かった。植民地時代の終わりごろは、奥地の人々が過少に評価され虐げられていたので、低地の人々がイギリスから課された新しい税金に苦情を言っているとき、奥地の人々は王党派に付いた。これがその後のアメリカ独立戦争でのしこりになった。
== 最初の移民 ==
カリブ海バルバドス島の開拓者がカロライナの文化に強い影響を与え21世紀まで残っている。ヨーロッパ封建制度に基づく社会制度をもたらし、また奴隷を使った砂糖プランテーションの仕組みを伝えた。西アフリカを育てた経験のあるアフリカ人奴隷は、サウスカロライナの最初の換金作物の一つとなる穀物栽培に力となった。1663年、バルバドスの開拓者がウィリアム・ヒルトンをサウスカロライナの海岸に送って、定着に適した場所を探させたが、ヒルトンヘッド島を見つけて名づけたこと以外芳しい成果は得られなかった。ノースカロライナには短期間ではあるがケープフェア川の河口に植民地が作られた。そこから南にポートロイアル地区の探検隊が送られたが、そこではフランスが短期間チャールズフォート基地を造り、スペインはサンタエレナを造ったことがあった。サンタエレナは1566年から放棄されることになった1587年までスペイン領フロリダの首都であった。1666年、ロバート・サンフォード船長が友好的なエディスト・インディアンを訪ねた。ケープフェアに向けて帰路に付くとき、ヘンリー・ウッドワード博士が後に残り、奥地と先住民族の研究を続けることにした。
1669年8月、3隻の船、''カロライナ''、''ポートロイヤル''および''アルベマール''がイングランドからバルバドスに向かった。この船隊の''アルベマール''がバルバドスの海岸沖で沈んだ。船隊はカロライナの植民地領主が指示した物資を運び出し、''アルベマール''の代わりに''スリーブラザーズ''を傭船して再度出航した。その後間もなく嵐に遭って船隊がばらばらになり、''ポートロイヤル''は6週間彷徨うことになり、バハマで難破したときは飲み水が底を突いていた。44人の人々が岸に辿り着いたが、船長が新しい船を仕立てて一番近い植民地に送り届けるようになるまでに多くの者が死んだ。新しい船でニュープロビデンス島に行き、そこで新しい船を買ってバミューダまで行ってやっと''カロライナ''と落ち合うことができた。
バミューダでは、80歳のピューリタンでバミューダの開拓者ウィリアム・セイルがカロライナの知事に指名された。1670年3月15日、セイルの指揮でやっとポートロイヤルに到着した。ある乗客の証言によれば、インディアンは友好的であり、上陸するに適した場所を身振りで示し、片言のスペイン語で話しかけてきた。スペインはこの頃もカロライナを自領と考えていた。スペインの主要な基地であるセントオーガスティンはそんなに離れておらず、スペインの伝道所であるグアレとモカマはサバンナ川とポートロイヤルの南海岸にあった。エディスト・インディアンはイギリス人がそこに恒久的な開拓地を作ることを快く思っていなかったが、海岸沿い北部に住んでいたキアワー・インディアンの酋長が来て、彼らの間にイギリス人が定着することと、バージニアの奴隷を求めて襲撃を掛けてくるウエストー族から守ることを申し出た。その酋長の名前はヒュージバット・クワーティといった。
水夫たちが合意し、現在のウエスト・アシュレーと呼ばれる地域に向かった。一行は4月早くにアシュレー川の岸、アルベマール・ポイントに上陸し、国王の栄誉を称えてチャールズタウン(現在のチャールストン)と名づけた開拓地を造った。5月23日に''スリーブラザーズ''がチャールズタウン湾に到着したが、11ないし12名の乗員は水と物資を求めてセントキャサリーンズ島に上陸し、スペインと同盟しているインディアンの中に迷い込んでしまっていた。セントキャサリーンズはスペイン領フロリダのグアレ植民地の首都であった。イングランドとバルバドスを出発した何百人もの人々の中で、3名のアフリカ人奴隷を含むわずか148名が生きてチャールズタウンに辿り着いたことになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サウスカロライナ植民地」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.