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コーカンド・ハン国(ウズベク語 : Qo'qon xonligi)は、18世紀後半から19世紀前半にかけて、フェルガナ盆地を中心に中央アジアに栄えたテュルク系イスラム王朝。現ウズベキスタン領フェルガナ州西部のコーカンド(ホーカンド)を都としてカザフスタン、キルギス、タジキスタンの一部に及ぶ西トルキスタンの東南部に君臨する強国に成長、一時は清朝の支配する東トルキスタンにまで勢力を伸ばしたが、内紛と周辺諸国の圧力から急速に衰え、ロシア帝国に併合されて滅んだ。 ウズベクと称されるジョチ・ウルス系の遊牧民が中心となって建設されたいわゆる「ウズベク3ハン国」のひとつであるが、他の2ハン国と異なり建国時から一貫して君主はチンギス・ハーンの血を引かないミング部族の出身である〔小松久男編『中央ユーラシア史』山川出版社、2000年、p. 310。〕。 == コーカンド・ハン国の成立 == 16世紀以来、フェルガナ地方には中央アジアに進出したウズベク系諸部族が流入し、ウズベク系のブハラ・ハン国がその支配者として君臨していた。しかし17世紀末頃にはブハラ・ハン国は本拠地であるマー・ワラー・アンナフルの一部しか支配しえないほどに弱体化し、フェルガナ地方ではイスラム神秘主義教団であるナクシュバンディー教団出身のホージャ(指導者)たちが都市の自治を担うようになっていた〔前掲書、p. 311。〕。しかし18世紀前半にはフェルガナ地方に土着したウズベク諸部族のひとつ、ミング部族のビー(部族長)〔前掲書、p. 310。「ビー」は、テュルク諸語で古くから首長の照合として用いられるベグのウズベク語形である。〕が力を付け、ホージャ権力を打倒してフェルガナ地方に自立政権を樹立していった。彼らは1740年には都をコーカンドに定めているが、コーカンド・ハン国の建国はこの頃とみなされることが普通である。 ハン国の勢力は当初きわめて弱体であり、天山山脈北麓に割拠するオイラトのジュンガル帝国による侵攻をたびたび受けて大いに脅かされた。さらに18世紀半ばに清がジュンガルを討ってジュンガルの支配する東トルキスタンを併合すると、コーカンド領に隣接するタリム盆地東縁のカシュガル地方において強大な清の勢力と直接接触することになり、また清の支配を逃れてオイラトの貴族や、タリム盆地各地を支配してきたホージャたちがフェルガナに流入してきたために、清との潜在的な敵対関係に入らざるを得なくなった。 コーカンドの君主エルデニは清の脅威に対して南のドゥッラーニー朝(アフガニスタン)に援助を求めたが果たせなかったので、清に朝貢使節を送って誼を通じた。清との朝貢関係樹立はその代償に清朝支配下の新疆(東トルキスタン)との通商権をコーカンドに与え、その経済的繁栄をもたらすことになる。 またコーカンドにかかる直接の軍事的圧力が薄れたことは、コーカンド政権の支配拡大を可能とした。コーカンドの君主たちはかつてジュンガルでも軍の主力として活躍してきたキルギス人の傭兵や砲兵を受け入れて軍事力を増強し、18世紀末のナルブタ・ビーの頃までにフェルガナ地方の統一に成功した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コーカンド・ハン国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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