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コフィ・ブシア : ミニ英和和英辞書
コフィ・ブシア
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


コフィ・ブシア : ウィキペディア日本語版
コフィ・ブシア
コフィ・アブレファ・ブシアKofi Abrefa Busia1913年7月11日-1978年8月28日)は、ガーナの政治家。ガーナの第2代首相を務めた(在任1969年10月1日-1972年1月13日)。
ブシアは英国ゴールドコーストのウェンチで生まれ、オックスフォード大学へ留学した。卒業後帰国し、1952年にガーナ会議党(GCP)の党首に選ばれ、エンクルマの会議人民党に対抗して伝統的首長との連携を図る保守的な立場をとった。ガーナ独立後、他党とともに連合党(UP)を結成したが、会議人民党のクワメ・エンクルマの弾圧を受け、国外脱出を余儀なくされた。1959年にはオランダライデン大学社会学及びアフリカ文化学の教授となり、1962年から1969年まではオックスフォードに移った。
1966年2月24日、エンクルマ政権が軍事クーデターで打倒され、新しい軍事政権が民政移管を公約に掲げると、3月にブシアは帰国した。1969年、ブシアは(PP)を結成し、8月29日の選挙(:en:Ghanaian parliamentary election, 1969)に出馬した。進歩党はを基盤とし、エウェ人を基盤とする(NAL)に勝利。ブシアは首相に選出された。
ブシアの政治は反エンクルマを基本路線とし、またエウェ人やを敵視してアカン人中心主義をとったため、国内に亀裂が生まれた。また、ガーナの主力商品であるカカオの価格は下落を続け、経済は逼迫し国民の不満は募った。
1972年1月13日イグナティウス・アチャンポン大佐が軍事クーデターを起こし、ブシアは失脚。1978年8月28日、亡命先のオックスフォードで心臓発作により息を引き取った。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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