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クリーク戦争 : ミニ英和和英辞書
クリーク戦争[くりーくせんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

クリーク : [くりーく]
 【名詞】 1. (1) cleek (golf) 2. (2) creek 3. (P), (n) (1) cleek (golf)/(2) creek
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 

クリーク戦争 : ウィキペディア日本語版
クリーク戦争[くりーくせんそう]

クリーク戦争(英:Creek War、またはレッド・スティック戦争(Red Stick War)またはクリーク族内戦(Creek Civil War)、1813年 - 1814年)は、アメリカ合衆国南部でのクリーク族インディアン内戦に、アメリカ軍が介入した「インディアン戦争」である。結果的にはお定まりのインディアンの強制移住と、合衆国によるインディアンからの領土略奪という民族浄化となった。
インディアンをイギリス軍が支援していたので、米英戦争の一部と考えられることがある。この戦争でアメリカ軍を勝利に導いたアンドリュー・ジャクソンが、白人社会で一躍名声を上げることになった。
== 背景 ==
1811年12月16日から数回にわたって、ニューマドリード地震がアメリカ中西部のクリーク族の土地を襲った。この出来事の解釈は、部族毎にまた宗教毎に異なるが、一般に認められたことは、大地震に何らかの意味があったに違いないということであった。〔Ehle p. 102-104〕
戦いの際に赤く塗った棒を使ったので、「レッド・スティックス(赤い棒)」と呼ばれたクリーク族の戦士団が、彼らの暮らしを白人の干渉を受けない、伝統的なものに強引に戻そうとしていた。レッド・スティックスには、ウィリアム・ウェザーフォード(レッド・イーグル)、ピーター・マックィーンおよびメナワといった強力な戦士がいて、イギリス軍と同盟を結び、クリーク族の土地を浸食してくる白人や、アメリカ合衆国のインディアン部局代理人ベンジャミン・ホーキンスによって管理される「文明化」計画について、クリーク族内部の他の戦士達と激しい対立が起こっていた。クリーク族内戦が始まる前に、レッド・スティックスはその活動を酋長、長老たちには知らせないようにしていた。

1813年2月、リトル・ウォリアーたちレッド・スティックスの小部隊がデトロイトから戻る途中で、オハイオ川沿いの白人入植者2家族を虐殺した。ホーキンスはクリーク族にリトル・ウォリアーとその6人の仲間を引き渡すよう要求した。酋長達は合議の結果、襲撃者を白人連邦政府の役人に引き渡す代わりに、部族で罰すると決めた。この決定がクリーク族の内戦を起こす火種となった。〔Adams p. 777-778〕
アッパータウンに住むクリーク族のレッド・スティックスが、ローワータウンに住むクリーク族の幾つかの集落を即座に征圧した。ローワータウンのクリーク族は、家畜を飼い、また紡織機を使うなど、白人の文明に同化する段階を踏んでいるところであった。レッド・スティックスは、家畜や壺、鍋、手織りの布など白人社会からきた物全てを破壊した。しかし、レッド・スティックスは見つけた銃や鋼製の刃物を押収する以上のことはしなかった。
1813年7月21日、アメリカ軍兵士の1隊がフロリダから戻る途中のピーター・マックィーン率いるレッド・スティックスの1隊を止めた時に、レッド・スティックスとアメリカ白人との最初の衝突が起こった。レッド・スティックスはペンサコーラスペイン知事から弾薬の供給を受けて持ち帰る途中だった。この時はレッド・スティックスが一旦逃亡し、アメリカ兵は残っていた物資を押収した。その光景を見ていたレッド・スティックスが急襲をかけて報復した。バーント・コーンの戦いとして知られるようになるこの衝突で、クリーク族の内戦はアメリカ軍を巻き込むことになった。〔Ehle p. 104-105〕
ピーター・マックィーンはウィリアム・ウェザーフォードと共に仕返しのために、8月30日アラバマモービルの北にあったミムズ砦を襲った。レッド・スティックスの目標はその砦に逃げ込んでいた混血のクリーク族を襲うことであった。クリーク族の一部による制止努力にも拘わらず、虐殺が起こり、400名ないし500名が殺された。アメリカ南東部一帯の入植地に恐慌がおこり、政府の干渉を求めた。アメリカ軍はイギリス軍や北部森林地帯のショーニー族に率いられるインディアン戦争の真っ最中であったので、南部諸州は民兵を召集してこの脅威に対処することにした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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