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クトナー・ホラ : ミニ英和和英辞書
クトナー・ホラ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

クトナー・ホラ : ウィキペディア日本語版
クトナー・ホラ[ちょうおん]

クトナー・ホラチェコ語:Kutná Hora、中世チェコ語:Hory Kutné)は、チェコ中央ボヘミア州の都市。ドイツ語名はクッテンベルク(Kuttenberg)。2014年当時の人口は約20,300人〔薩摩「クトナー・ホラ」『東欧を知る事典』新版、118頁〕。1995年に市中心部が「クトナー・ホラの聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」としてUNESCO世界遺産に登録された。
==歴史==
銀が産出された最も古い記録は10世紀に遡る。現在クトナー・ホラの一部であるマリーンからは、985年から995年に製造された銀製通貨ディナールが発見されている。ドイツ語名のクッテンベルクは「溝」「堀」を意味する「クッテ」と「山」「鉱山」を意味するベルクを合成した言葉で、先にドイツ語の名前が付けられ、それをチェコ語に訳した「クトナー・ホラ」が後から使われるようになったと考えられている〔薩摩『図説 チェコとスロヴァキア』、22-25頁〕。
1142年にチェコ最初のシトー会の修道院がクトナー・ホラ近郊のセドレツに建てられる〔。
13世紀後半に銀鉱が発見され、鉱山を中心に集落が形成された〔。中世のクトナー・ホラにはドイツ出身の鉱夫、技術者が多く住んでいたと考えられている〔。1289年に正式に都市となり、1300年ボヘミア王ヴァーツラフ2世によって王立造幣局が設営された。ここで鋳造された銀貨はプラハ・グロシュと呼ばれ、広くボヘミア内外に流通した。町で産出された銀はボヘミア王国の重要な財源となり〔、14世紀から15世紀にかけてプラハに次ぐ重要な都市となった〔。造幣局を兼ねた王の邸宅(通称「イタリア宮」)には代々のボヘミア王がしばしば滞在した。1409年1月18日には、ボヘミア王ヴァーツラフ4世が、カレル大学におけるチェコ人の優位を認めるクトナー・ホラの勅令に署名した〔。
1419年にフス戦争が勃発すると、皇帝ジギスムントは、クトナー・ホラをフス派に対抗する拠点とした。1421年12月、ジギスムントはフス派急進勢力ターボル派ターボルの町を拠点とした)を率いるヤン・ジシュカに敗れ(クトナー・ホラの戦い)、町はジシュカに攻略された。一時的な和解の後、ターボル派の手中に町が再び陥落するのを妨げようとした神聖ローマ帝国軍によって、1422年、町に火が放たれた。それでもなおジシュカは町を手放さず、ボヘミア人の保護下で再び繁栄の時代を迎えた。
しかし15世紀後半以降銀が枯渇し初め〔、1541年には最も資源に富んだ坑道が水没した。皇帝フェルディナント1世に対するボヘミアの反乱で町は全ての特権を失い、黒死病三十年戦争の戦禍でクトナー・ホラは廃墟と化した。平和が回復された後、廃れた鉱山を修復する試みは成功せず、町は衰微した。1770年には大火に見舞われ、鉱山と造幣局は18世紀終わりまでに閉鎖された。1845年に鉄道が敷設された後、経済活動の中心はクトナー・ホラの北10kmに位置するコリーンに移った〔沼野『中欧 ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』、109-110頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クトナー・ホラ」の詳細全文を読む




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