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クトゥブッディーン・アイバク : ミニ英和和英辞書
クトゥブッディーン・アイバク[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

クトゥブッディーン・アイバク : ウィキペディア日本語版
クトゥブッディーン・アイバク[ちょうおん]

クトゥブッディーン・アイバクقطب الدين أيبك (Quṭb al-Dīn Aybak) ? - 1210年)は、ムガル帝国インド侵入以前にデリーを中心に北インドを支配したデリー・スルタン諸王朝最初のスルタン(在位1206年6月27日 - 1210年)。
マムルーク(奴隷軍人)としてゴール朝シハーブッディーン・ムハンマド(ムハンマド・ゴーリー)に仕え、元奴隷身分ながら新王朝を開いた。後継者(娘婿)のイルトゥトゥミシュもまた解放奴隷であったことから、アイバクの開いたデリー・スルタン朝最初の王朝は奴隷王朝と呼ばれる。
== 生涯 ==

=== 出世 ===
中央ユーラシアテュルク遊牧民キプチャクの出身で、アイバクの名はテュルク語で「月の主」を意味する。父母に関しては不明である。
幼少のころ、ホラーサーン(現在のイラン東北部)の都市ニーシャープールで名家に奴隷として売られて軍人教育を受けたあと、シハーブッディーンに購入されて〔『ムガル帝国歴代誌』109頁。〕、宮廷に仕えるマムルークとなった。アイバクは厩舎係からやがて将軍に出世すると、ゴール朝の諸君主の中ではインド方面の経略を担当したシハーブッディーンに従いインドでの戦役に従軍、ヒンドゥースタン北インド)のラージプート諸勢力との戦いに功績を立てた。1193年にデリーを攻略したシハーブッディーンが兄・ギヤースッディーン・ムハンマドのいるホラーサーンに活動の拠点を移すと、アイバクはデリーの支配を委ねられ、北インドの征服をほとんど完了させた〔『南アジア史』200頁。〕。1202年にはカーリンジャルを落として中央インドを征服し、さらにベンガルまで進軍して占領しインド仏教の拠点であったヴィクラマシーラ僧院を破壊してゴール朝のインド支配に貢献した〔『南アジア史』200頁。〕。
1206年、アイバクはシハーブッディーンより「ペシャワールの門からインドの最も奥地まで」のゴール領の総督に任命された〔『ムガル帝国歴代誌』109頁。〕。それから2、3週間後の3月に主君のシハーブッディーンが暗殺されて〔『南アジア史』200頁。『ムガル帝国歴代誌』109頁。〕ゴール朝が統一を失うと、アイバクは6月に自らスルタンを称して事実上デリーに独立、インドを本拠地とし、インドのみを支配する史上初のイスラム王朝である奴隷王朝を開いた。アイバクは、ゴール朝の分裂にともなう混乱と争奪の中でアフガニスタンとデリーの中間に位置するパンジャーブ地方を併合することに成功する。さらにイルトゥトゥミシュに娘を嫁がせ、シンド地方の総督であったナースィル・ウッディーン・カバーチャに姉妹を嫁がせ、自らはケルマーンの総督であるタージ・ウッディーン・ヤルドーズの娘を妻として迎えて権力の基盤を固めた〔『ムガル帝国歴代誌』109頁・110頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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