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ギヤースッディーン・アーザム・シャー : ミニ英和和英辞書
ギヤースッディーン・アーザム・シャー[ぎや]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ギヤ : [ぎや]
 (n) gear, (n) gear
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ギヤースッディーン・アーザム・シャー : ウィキペディア日本語版
ギヤースッディーン・アーザム・シャー[ぎや]

ギヤースッディーン・アーザム・シャー(Ghiyasuddin Azam Shah, 生年不詳 - 1410年)は、東インドベンガル・スルターン朝イリヤース・シャーヒー朝の君主(在位:1389年 - 1410年)。

==生涯==
1389年、ギヤースッディーン・アーザム・シャーは宮廷内の内紛により、父王シカンダル・シャーを暗殺して即位して即位した〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.58〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158〕。
アーザム・シャーは中国との友好関係を構築し、1405年1407年永楽帝に使節を送り朝貢するなど、国際的にも広い視野を持っていたことで知られる〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.58〕〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.167〕。永楽帝はその使節をあたたかく迎え入れ、1409年には中国から使節が派遣され、ベンガルから仏教僧を派遣するように要請した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.167〕。これは仏教がベンガル地方では完全に滅んでいなかったこと意味しており、要請通りベンガルから中国に仏教僧が派遣された〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.167〕。
アーザム・シャーが中国との交流を復活したことにより、ベンガルの海外貿易は大きく発展した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.167〕。チッタゴン港は中国貿易の拠点となり、また中国の商品を世界に再輸出・拡散する地として繁栄した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.167〕。
アーザム・シャーは軍事には積極的だったものの、ことごとく失敗した〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.58〕。アッサム地方に送った遠征軍は敗れ、ビルマアラカン王国の王位継承に関与したものの、これもうまくはいかなかった〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.58〕。
アーザム・シャーはメッカメディナマドラサ建設費用を負担し、多額の運営資金を送るなど、信心深い王でもあった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.131〕。そのことにより、同時代の西アジアの史料には彼の名が残っている〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.131〕
また、アーザム・シャーはシーラーズの詩人ハーフィズや、その他この時代に有名だった学者と交流した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.167〕。とくにハーフィズには興味を持ち、シーラーズからベンガルの宮廷に移住させようと説得している〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158〕。
1410年、アーザム・シャーは死亡し、息子のサイフッディーン・ハムザ・シャーが王位を継承した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ギヤースッディーン・アーザム・シャー」の詳細全文を読む




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