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キプロス紛争 : ミニ英和和英辞書
キプロス紛争[きぷろすふんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

紛争 : [ふんそう]
  1. (n,vs) dispute 2. trouble 3. strife 

キプロス紛争 : ウィキペディア日本語版
キプロス紛争[きぷろすふんそう]

キプロス紛争(キプロスふんそう)は、1964年からキプロスで継続している紛争。事実上のギリシャトルコ代理戦争になっている。
== 背景 ==

キプロスは古くから地中海における要衝であり、紀元前1600年頃から交易都市として発展する。それ以降、ギリシャ人が多く居住していた。その後、1571年オスマン帝国に占領されると、トルコ人が流入する。これにより、現在のキプロスにおける民族構成ができあがる。
露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約締結後の1878年5月25日、イギリスはオスマン帝国に対露防衛同盟を提案し、6月4日に二か条から成る秘密協定が結ばれた。この協定により、イギリスはロシア帝国のオスマン帝国アジア領侵略時にオスマン帝国と共に武力で対抗し、見返りとしてオスマン帝国はイギリスへのキプロス島の一時的譲渡に同意した。一方で、イギリスは露土戦争後に生じた状況を自国に有利なように調整するため、5月30日にロシア帝国とも秘密協定を結んでいた。しかし、ベルリン会議において秘密協定が暴露されたため、7月1日にイギリスの働きかけで五か条から成る追加協定が結ばれた。この協定により、ロシア帝国がカルス及び東アナトリアの占領地をオスマン帝国に返還した場合にイギリスがキプロス島をオスマン帝国に返還すること、 22,936ケセ (約92,800スターリングポンド)の年賦をオスマン帝国に支払うことなどが取り決められた。その後、7月7日にキプロス島の統治権をイギリスに移管する旨の勅令が発布され、7月12日にイギリス軍がキプロス島に上陸した。7月15日の協定批准書の交換式で、イスタンブル駐在イギリス大使ヘンリー・レイヤードは、オスマン帝国スルタンアブデュルハミト2世に対し、キプロス島におけるスルタンの権利と権限に制限が加えられることのない旨の誓約書を手交した〔Ali Satan,"Yeni İngiliz Belgeleri Işığında Kıbrıs ve Önemi" , ''Yakın Dönem Türkiye Araştırmaları'', Vol.6 (2004), p. 55.〕。さらに第一次世界大戦でトルコが同盟国側で参戦したのを口実に1914年11月4日、イギリスがキプロスの併合を宣言し、1925年に直轄植民地とした〔リチャード・クロッグ、(2004)p.165.〕〔桜井(2005)、p.349.〕。
イギリスは1882年以来、キプロスの植民地化に着手しており、ギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人らを分断した政策を行なったため、ギリシャ系の人々はギリシャと、トルコ系の人々はトルコとの同化を求めていた〔桜井(2005)、p.350.〕。
第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期には、ギリシャ系キプロス人が独立を望んで植民地政庁を焼き討ちするなどの行為が発生していたが、パレスチナ委任統治が終了したイギリスは中東戦略の要衝としてキプロスを選んでいたため、これを拒否していた〔。
第二次世界大戦後、人口の8割を占めるギリシャ系の住民たちがギリシャへの併合を要求したが、イギリスはキプロスの統治権を手放す気はなかった。しかし、1950年1月、ギリシャ系であるラルナカ主教ミハイル・ムスコス(同年9月、キプロス正教会首座主教に選ばれマカリオス3世)がギリシャへの併合を問う住民投票を実施。95.7%の人々がギリシャとの統一に賛成した。これを受けたキプロス代表団はギリシャ政府へ国際連合へ提訴するよう訴えたが、イギリスがこれに否定的な立場をとっていたため、ギリシャは統一を拒否した〔。
1955年4月、キプロス生まれのギリシャ軍将校ゲオルギオス・グリヴァスは不服従運動を開始。これは後にキプロス解放民族組織(EOKA)の結成に発展し、マカリオスはこの動きを黙認した。これらの事態に対し、キプロス問題がギリシャへ有利に進む事を恐れたイギリスは、トルコに対してキプロスにおいて利害関係があるよう主張させるために働きかけた。1955年9月、ロンドンで英希土三国会議が開催されたが、この会議が行なわれている最中の9月6日から7日にかけてイスタンブルイズミルで反ギリシャ人暴動が発生してしまう。暴動は希土両国に決定的な亀裂をもたらしロンドン会議は決裂した〔桜井(2005)、pp.350-351.〕〔。
イギリスは、キプロスが軍事施設の設営に適し、地中海における戦略的重要地域となっていることに気づいていたが、第二次中東戦争(スエズ動乱)の敗北でキプロスの部分的放棄を認めざるを得なかった〔桜井(2005)、p.351.〕。各国の利害を収めるためにチューリッヒとロンドンで会議が持たれ、英希土3国政府に加え、キプロスのギリシャ人代表としてマカリオス、トルコ人代表としてファーズル・キュチュクらが参加した〔リチャード・クロッグ、(2004)p.168.〕。
この当時、ニコシアで新聞社爆破事件が起きるなどEOKAやトルコ系キプロス人らの武装組織によるテロが激化し、手詰まり感が広がっていたことから、マカリオス大主教はキプロスの独立を選択した〔桜井(2005)、pp.351-352.〕。その結果、チューリッヒ・ロンドン協定が成立し、1960年8月16日をもってキプロスはイギリス連邦に属する「キプロス共和国」として独立したが、憲法が欠陥を抱えたまま制定された上、キプロス正規軍である『キプロス民族防衛隊』とイギリス軍に加え、ギリシャ軍トルコ軍国連平和維持軍が駐留することとなった〔。
1963年、マカリオスはトルコ系住民の権利を縮小させる憲法修正を提起したが、トルコ政府は拒否し、トルコ系住民も「ギリシャへの併合へつながる」として強く反発した〔リチャード・クロッグ、(2004)pp.172-3.〕。さらにテロによってトルコ系国会議員3名が死亡したことで〔大島 (1986)、p.37.〕危機感を募らせたトルコ系住民は分離独立を主張しギリシャ系住民との間で激しい武力抗争を展開、1964年、キプロスは内戦状態に陥った〔桜井(2005)、p.352.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「キプロス紛争」の詳細全文を読む




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