翻訳と辞書
Words near each other
・ カムイワッカの滝
・ カムイワッカ岬
・ カムイワッカ温泉
・ カムイワッカ湯の滝
・ カムイ・イピリマ
・ カムイ・イピリマ (SFU)
・ カムイ伝
・ カムイ外伝
・ カムイ焼
・ カムイ竜ヶ崎スノーボードパーク
カムウアン・ブッパー
・ カムウェンゲ県
・ カムエア
・ カムエク
・ カムエンタテインメント
・ カムオオイチヒメ
・ カムオホイチヒメ
・ カムオルガロン
・ カムオン
・ カムカム


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

カムウアン・ブッパー : ミニ英和和英辞書
カムウアン・ブッパー[かむ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

カム : [かむ]
 【名詞】 1. cam 2. (n) cam
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

カムウアン・ブッパー : ウィキペディア日本語版
カムウアン・ブッパー[かむ]

カムウアン・ブッパー( / Khamouane Boupha, 1932年12月5日 - )は、ラオスの軍人、政治家。ラオス内戦中は中立派に属したが、やがて左派パテート・ラーオに接近し、中立左派「愛国中立勢力」を形成した。人民民主共和国の成立後は副大臣、大臣を歴任。
== 経歴 ==
カムウアン・ブッパーは1932年、フランス統治下ルアンパバーンに生まれる。ラオス独立後は王国軍に入隊。ラオス内戦中、ルアンパバーン軍管区司令官に任命され、大佐に昇格した〔Stuart-Fox(2007), p.153.〕。1957年11月、ラオス王国政府と左派パテート・ラーオの間で和平協定が締結され、パテート・ラーオ施政下のポンサーリー県が王国側に返還されると、ルアンパバーンとポンサーリーの両軍管区司令官および両県知事を兼ねた〔。
1960年8月のコン・レー大尉によるクーデター後、王国軍が中立派と右派に分裂すると、ポンサリーのカムウアン大佐は、当初どちらにもつかない方針を取ったが〔スチュアート-フォックス(2010年)、176ページ。〕、やがてスワンナ・プーマ首相の中立派政府を支持した。
同年12月、右派軍の進攻により中立派は首都ヴィエンチャンを放棄せざるを得なくなり、ジャール平原に撤退した。その後中立派は平原東部のカンカーイを拠点とし、北ベトナム経由でソ連の物資支援を受けながら、左派パテート・ラーオと共闘して右派に対抗した。
しかし、ポンサリーのカムウアンは、1500人の兵力を擁していたが、プーマ首相の了承の下で中国から武器支援を受けていたこともあり、左派とはそれほど協力的ではなかった〔木村(2007年)、98ページ。〕。
1962年に3派間で和平が合意され、プーマ親王を首班とする第2次連合政府が成立した。しかし、和平協定によりソ連からの支援が止まると、中立派のコン・レーらはアメリカに物資供給を頼るようになる。ドゥアン・スンナラート大佐の中立左派グループはこの政策を批判し、やがて中立派軍はコン・レー派とドゥアン派に分かれて対立した。
1963年4月、ドゥアン派が中立派を離脱すると、カムウアンは2000人の配下部隊とともに合流し、中立左派「愛国中立勢力」を形成した〔。カムウアンは准将に昇格し、愛国中立勢力軍北部最高司令官に就任した〔Stuart-Fox(2007), p.154.〕。その後、愛国中立勢力は左派パテート・ラーオと共闘し、プーマ政府との間で内戦を継続することになる。1970年には、愛国中立勢力軍副司令官に就任した〔プーミー(2010年)、246ページ・脚注21。〕。
1973年、中立右派=右派政府と左派勢力の間で三度の和平合意がなされた。この合意に基づき、翌1974年4月5日にプーマ親王を首班とする第3次連合政府が成立すると、カムウアンも左派勢力を代表して国防担当次官に就任した〔。
やがて、インドシナ全域において共産勢力が優勢となり、1975年4月17日にプノンペンが陥落し、30日にはサイゴンが陥落した。このような背景から、ラオスにおいても各地で左派のデモが続発し、右派を非難・攻撃した。5月9日には右派国防大臣が辞任し、翌10日にタイ亡命。これを受けて、カムウアンは国防大臣代理に任命され、軍の指揮権を委譲された〔スチュアート-フォックス(2010年)、245ページ。〕。カムウアンはプーマ首相の同意のもと、王国軍の無力化にとりかかり、各地の司令官にパテート・ラーオに逆らわないよう命令した〔。これによりパテート・ラーオ軍は続々と右派地域を解放し、権力を奪取した。
1975年12月、王制が廃止され人民民主共和国が成立すると、国防副大臣に任命された〔。その後、農業副大臣、工業副大臣を経て〔、1992年にカムタイ・シーパンドーン内閣において司法大臣に任命された〔『アジア動向年報1993 』アジア経済研究所、1993年、246ページ。〕〔。1998年2月のシーサワット・ケーオブンパン内閣〔『アジア動向年報1999 』アジア経済研究所、1999年、258ページ。〕および2001年3月のブンニャン・ウォーラチット内閣においても司法大臣に留任し〔ヴォーラペット(2010年)、164-165ページ。〕、2006年までその任に当たった。
2002年2月、第5期国民議会議員選挙においては、唯一の非人民革命党員として当選し〔ヴォーラペット(2010年)、164ページ。〕、2006年まで務めた。
2006年6月、ブアソーン・ブッパーヴァン内閣において首相府付大臣に転出し〔ヴォーラペット(2010年)、182-183ページ。〕、国家土地管理機構長を兼ねた〔『アジア動向年報2007』アジア経済研究所、2007年、263ページ。〕。2010年トーンシン・タムマヴォン内閣においても留任し〔『アジア動向年報2011』アジア経済研究所、2011年。〕、現在に至る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カムウアン・ブッパー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.