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カトリーヌ・ド・メディシス : ミニ英和和英辞書
カトリーヌ・ド・メディシス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

カトリーヌ・ド・メディシス : ウィキペディア日本語版
カトリーヌ・ド・メディシス[ちょうおん]

カトリーヌ・ド・メディシス(、1519年4月13日 - 1589年1月5日)は、フランスアンリ2世の王妃。フランス王フランソワ2世シャルル9世アンリ3世の母后〔成瀬治世界の歴史〈15〉近代ヨーロッパへの道』(講談社、1978年)、フィリップ・エルランジェ 『聖バルテルミーの大虐殺』 (磯見辰典訳、白水社、1985年)、オルソラ・ネーミ、ヘンリー・ファースト 『カトリーヌ・ド・メディシス』(千種堅訳、中央公論社、1982年)、ジョルジュ・リヴェ 『宗教戦争』(二宮宏之、関根素子訳、白水社、1968年)はいずれもカトリーヌの称号として「母后」の用語を用いている。また、ジャン・オリユー 『カトリーヌ・ド・メディシス―ルネサンスと宗教戦争〈上下〉』( 田中梓訳、河出書房新社、1990年)は「王母」としている。〕。
1519年イタリアフィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチロレンツォ・デ・メディチの孫)と、オーヴェルニュジャン3世の娘マドレーヌの間に生まれた。イタリア語名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ()。
彼女を出産後に母が亡くなり、間もなく父も亡くして孤児となる。1533年ローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランスの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)と結婚する。10人の子を産むが、アンリ2世の寵愛は愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエに独占されていた。1559年に馬上槍試合での事故でアンリ2世が死去し、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼いシャルル9世が即位すると摂政として政治を担うことになる。
国内ではユグノー(フランスカルヴァン派の呼称)とカトリックの対立が激化しており、カトリーヌは融和政策を図るが、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)の勃発を止めることはできなかった。休戦と再戦を繰り返した1572年にパリやフランス各地でプロテスタントの大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺)が起こり、カトリーヌは悪名を残すことになる。シャルル9世はこの2年後に死去し、四男のアンリ3世が即位するが、内乱はカトリック陣営のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリとのいわゆる「三アンリの戦い」の様相を呈し、泥沼化する。1588年にアンリ3世は強硬手段に出てギーズ公アンリを暗殺するが、病床にあったカトリーヌは息子の愚行を嘆きつつ程なくして死去した。カトリーヌの死の8ヶ月後にアンリ3世はカトリック修道士に暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。ナバラ王アンリがアンリ4世として即位し、新たにブルボン朝が開かれた。
芸術を愛好し、宮殿の造営や歌謡・演劇の分野で才能を発揮した〔【カトリーヌ・ド・メディシス】 (日本大百科全書、小学館)〕。また、フランスの食文化を発展させたことでも知られる〔【フランス料理】 (日本大百科全書、小学館)〕。
イタリア人ではあるが、その生涯の大半がフランス王族としての事跡であるため、便宜上、本項目ではフランス語読みの「カトリーヌ・ド・メディシス」で統一する。
== 生涯 ==

===出生と幼少期===

医師または薬剤師を祖とする〔メディチ家の起源を薬剤師とする説が一般的だが、未だ確定的ではなく諸説ある。森田(1999),pp.12-16〕フィレンツェの新興富豪一族メディチ家は巨大な富と権力を手にしていた。カトリーヌの父ロレンツォ2世・デ・メディチは叔父の教皇レオ10世によってウルビーノ公に叙されたが、ロレンツォの死後にその称号はフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレに奪い返されている。このため、父が公爵であり、母マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュがブローニュ女伯爵であるにもかかわらず、カトリーヌ本人は比較的低い出自となった。
ロレンツォとマドレーヌは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に対抗するフランス王フランソワ1世と教皇レオ10世との同盟の一環として1518年にアンボワーズで結婚していた〔オリユー(1990a),pp.49-50〕。同時代の年代記によると、カトリーヌが1519年4月13日水曜日にフィレンツェで生まれた時、両親は「まるで男子が生まれたかのように喜んだ」という〔Frieda(2005), p.14.〕。だが、彼らの喜びは長くは続かず、母マドレーヌは4月28日に、父ロレンツォ2世もまた5月4日に相次いで死去してしまう。メディチ家兄脈を正統に継ぐ唯一の人間となったカトリーヌに対し、フランソワ1世は後見人たるを望むが、教皇レオ10世はこれを拒絶した〔ネーミ&ファースト(1982),p.10〕。教皇レオ10世はカトリーヌを弟の庶子であるイッポーリト・デ・メディチと結婚させてフィレンツェの共同統治者に据えることを意図していた〔オリユー(1990a),pp.51-56〕。
カトリーヌは当初父方の祖母アルフォンシーナ・オルシーニピエロ・デ・メディチの妻)に養育された。1520年にアルフォンシーナが死去すると叔母のクラリーチェ・デ・メディチに引き取られ、従兄弟たちと育てられた。1521年に教皇レオ10世が死去し、皇帝カール5世の推すハドリアヌス6世が新教皇に選出されたことにより、メディチ家の権力は一時的に衰えたが〔ネーミ&ファースト(1982),p.11〕、新教皇は短命に終わり、1523年に一門のジュリオ・デ・メディチ枢機卿が教皇に選出された(クレメンス7世)。教皇クレメンス7世はカトリーヌにフィレンツェのメディチ・リッカルディ宮を与えた。フィレンツェの人々は彼女の公認されていないウルビーノ公位継承権を尊重して「小公女」(''duchessina'')と呼んだ〔Frieda(2005), pp.23-24.〕〔Young(1920), p.15.〕。
1527年、フィレンツェにおけるメディチ家の政権はクレメンス7世の代理人シルヴィオ・パッセリーニに反対する派閥によって打倒され、カトリーヌは人質とされて女子修道院に入れられる〔Knecht(1998), p.11.〕。当時、教皇クレメンス7世は皇帝カール5世と敵対していたが、フィレンツェを奪回するためにカール5世の皇帝戴冠を余儀なくされた〔Knecht(1998), pp.10-11.〕。1529年10月、カール5世の軍隊はフィレンツェを包囲した。包囲が長期化するとカトリーヌを淫売屋に入れろ、城壁にさらせ、兵士の慰みものにしろなどという声が上がり〔ネーミ&ファースト(1982),p.13〕、兵士たちは彼女を驢馬に乗せて群衆の嘲りを受けさせながら通りを引き回した〔Frieda(2005), pp.29-30.〕。1530年8月12日にフィレンツェは陥落し、教皇クレメンス7世はカトリーヌをローマへ呼び寄せ、面会の時には涙を流しながら迎え入れた〔ネーミ&ファースト(1982),p.14〕。その後、彼はカトリーヌの夫探しにとりかかる〔Knecht(1998), p.12.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カトリーヌ・ド・メディシス」の詳細全文を読む




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