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カトリック麻布教会 : ミニ英和和英辞書
カトリック麻布教会[かとりっくあざぶきょうかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あさ]
 【名詞】 1. flax 2. linen 3. hemp 
麻布 : [あざぶ, まふ]
 【名詞】 1. hemp cloth 2. linen
: [ぬの]
 【名詞】 1. cloth 
布教 : [ふきょう]
  1. (n,vs) propagation (e.g., a religion) 
教会 : [きょうかい]
 【名詞】 1. church 
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 

カトリック麻布教会 : ウィキペディア日本語版
カトリック麻布教会[かとりっくあざぶきょうかい]

カトリック麻布教会(かとりっくあざぶきょうかい)は、東京都港区西麻布にあるキリスト教カトリック)の教会およびその聖堂である。教会堂名は「イエスのみ心」。
== 沿革 ==
1882年明治15年)5月3日、芝区赤羽根橋南東畔の松本町(現在の港区赤羽橋交差点西南隅)にカトリック築地教会の巡回教会が設置された。これは、築地教会所属の信徒の中で、芝公園近隣地区に住む信徒が多くなったためである。新聖堂は聖十字架発見の記念日にちなんで、『聖十字架の聖堂』と命名された。
赤羽橋の教会が手狭になると、当時神田教会から巡回していた司祭のジャック・エドモンド・パピノ〔
1860年11月18日フランス北東部のセーヌ河畔にある町シャロンで誕生。幼くして両親を亡くし祖母や従姉妹に育てられ、子供のための神学校を卒業。1885年パリ外国宣教会に入会、1886年に司祭に叙階され、3ヵ月後の1月に来日し、関東以北を管轄する北緯聖会に配属された。神田教会や麻布教会で働いた後、東京神学校で教師となり多くの科目を担当したといわれる。建築家としても才能を発揮し、浅草教会や佐渡教会、さらに神田教会や山形県鶴岡など多くの教会の聖堂設計に携わった。一方ではローマ字版の聖歌編集の編纂も行うなど、幅広い知識を発揮し活躍した。1911年9月に約25年間滞在した日本を離れ、1919年からは香港へ赴任し、教会誌の発行などに尽力した。その後、1927年フランスに戻り、パリ外国宣教会本部の出版物の編集業務を担当した。1942年11月21日死去。
〕は、1889年(明治22年)、麻布区霞町21番地(現在の麻布教会敷地)に土地を借り受け聖堂の建築に着手、1890年(明治23年)7月1日に完成し、神田教会の巡回教会とした。1892年(明治25年)3月に司祭のドルワール・レゼー〔
1849年4月27日フランスのノール・ドンケルク市で誕生。1869年パリ外国宣教会に入会、1873年司祭叙階と同時に日本派遣を命じられた。甲信越地方において伝道生活を送ったのち、1892年麻布教会主任司祭に就任、1907年には関口教会主任司祭に就任した。1918年静岡県御殿場の神山復生病院院長に就任し、ハンセン病患者の救済に尽力した。1930年11月3日死去。
〕が麻布教会に常住したことから、同年を独立と考えるのが定説だが、1889年(明治22年)7月頃には独自の洗礼台帳やその他の教会文書が存在している事から、同年7月には独立していた説もある〔1990年発行「カトリック麻布教会 一八八九年 - 一九八九年」p.32 - p.33〕。
1893年(明治26年)頃からの麻布教会の活動は、東京6教会〔築地、神田、浅草、本所、麻布、関口の6教会。〕の中で最もおとなしく、目立たない存在だった。これは、司祭の交代が多かった事と、1888年(明治21年)麻布に大隊区司令部が設置され、この地域に多くの軍人が居住し、彼らは日清戦争後の領土問題に、ドイツフランスロシアが干渉した事で強く不満を持ち、その敵意をフランス人宣教師にも度々向けたためである。当時の司祭であるミッシェル・シュタイシェン〔
1857年12月17日ルクセンブルクのデュドランジュで誕生。大学を卒業後、パリ外国宣教会に入会し1886年司祭に叙階。翌年に日本へ宣教師として派遣された。盛岡築地静岡麻布横浜の各地教会においてカトリック伝道に従事した。1918年築地神学校長及び築地教会主任司祭などの勤務の傍ら、キリシタン研究に没頭し1930年「切支丹大名記」を刊行。さらに、機関誌「声」の編集長の傍ら、執筆にも精を出し「洲飛泉」、「捨井芝園」などのペンネームで作品を発表した。健康を害し、関口教会で静養に努めたが、1929年7月26日、本郷教会において死去。
〕は、温和な性格であるため移転までも考えたが、財政的に無理であったので、住民の感情を刺激しないよう、細々とした活動を行った。この苦境に耐えた麻布教会は後に大きく発展し、1921年大正10年)には東京6教会の中で最大の信徒数となった。
1890年(明治23年)に建てられた聖堂は1916年(大正5年)に建替えられたが、1945年(昭和20年)東京大空襲により聖堂が全焼し、聖心女子学院、信徒宅、伊皿子枝光会を仮聖堂とするなどの移転を繰り返し、1952年(昭和27年)4月13日、現在の聖堂が完成した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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