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カタリーナ・ベルヒカ・ファン・ナッサウ : ミニ英和和英辞書
カタリーナ・ベルヒカ・ファン・ナッサウ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

カタリーナ・ベルヒカ・ファン・ナッサウ : ウィキペディア日本語版
カタリーナ・ベルヒカ・ファン・ナッサウ[ちょうおん]

カタリーナ・ベルヒカ・ファン・ナッサウCatharina Belgica van Nassau, 1578年7月31日 アントウェルペン - 1648年4月12日 デン・ハーグ)は、オラニエ公ウィレム1世(沈黙公)の娘で、ドイツのハーナウ=ミュンツェンベルク伯フィリップ・ルートヴィヒ2世の妻。
ホラント州その他の総督を務めるウィレム1世と、その3番目の妻でモンパンシエ公ルイ3世の娘であるシャルロット・ド・ブルボンの間の6人の娘たちのうちの三女として生まれた。名前は「ベルヒカ(''Belgica'')」が公式の表記だが、カタリーナ・ベルヒカ本人は「ベルヒア(''Belgia'')」と自署するのを好んだようである。1596年にディレンブルクにおいて、フィリップ・ルートヴィヒ2世と結婚した。
1612年に夫と死別したとき、世継ぎの長男フィリップ・モーリッツはまだ7歳と幼年だったため、1627年に息子が成人するまでは伯爵領の単独後見人を務めた。しかし最初のうちは、カタリーナ・ベルヒカと夫の親族との間で、帝国最高法院(Reichskammergericht)において後見人の地位をめぐる法廷闘争が行われた。また息子が成人した後も実権を手放そうとしなかったため、息子と対立して、マールブルク大学法学部や帝国最高法院が仲裁に入り、ようやく実権を手放した。
長男の親政開始後はヴィンデッケン城(''Schloss Windecken'')などいくつかの城を寡婦領として与えられたが、1634年にハーナウ伯爵領の全域が三十年戦争の戦場と化すにおよび、家族とともに国外に退去した。そのまま実家を継いでいた異母弟フレデリック・ヘンドリックを頼って暮らし、1648年に亡くなった。遺骸はデルフトの新教会に安置された。
== 子女 ==

*シャルロッテ・ルイーゼ(1597年 - 1649年)
*次女(名前不明、1598年)
*フィリップ・ウルリヒ(1601年 - 1604年)
*アマーリエ・エリーザベト(1602年 - 1651年) - 1619年、ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム5世と結婚
*カタリーナ・ユリアーネ(1604年 - 1668年) - 1631年にゾルムス=ラウバッハ伯アルベルト・オットー2世と結婚、1642年にヴィート=ルンケル伯モーリッツ・クリスティアンと再婚
*フィリップ・モーリッツ(1605年 - 1638年) - ハーナウ=ミュンツェンベルク伯
*ヴィルヘルム・ラインハルト(1607年 - 1630年)
*ハインリヒ・ルートヴィヒ(1609年 - 1632年)
*フリードリヒ・ルートヴィヒ(1610年 - 1628年)
*ヤーコプ・ヨハン(1612年 - 1636年)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カタリーナ・ベルヒカ・ファン・ナッサウ」の詳細全文を読む




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