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オドリコ : よみがなを同じくする語

踊り子
踊り子 (列車)
踊り子 (村下孝蔵の曲)
踊子 (1957年の映画)
オドリコ : ミニ英和和英辞書
オドリコ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


オドリコ : ウィキペディア日本語版
オドリコ

ポルデノーネのオドリコ(俗名 オドリコ マッティウシ 或いは マッティウジ; 1286年1331年1月14日)は、後期中世イタリアの旅行家・修道士。彼の中国訪問に関する報告書簡はジョン・マンデヴィル の旅行記の重要資料となった。マンデヴィルの旅行記に掲載されている多くの驚異の事物はオドリコの目撃談を捻じ曲げて利用したものだと考えられている。
==生涯==
(現在はイタリアのフリウーリ地方のポルデノーネの町に所属している)Villanova村で1286年に生まれた。彼の先祖はマッティウシというチェコ人だった〔Hartig, Otto. "Odoric of Pordenone." The Catholic Encyclopedia. Vol. 12. New York: Robert Appleton Company, 1911. 27 Mar. 2013 〕。伝記史家によれば、彼は若い頃、フリウーリの州都であるウーディネフランシスコ修道会に入会した。
1296年にオドリコはバルカン半島、次いで南ロシアのモンゴルへ赴く任務を受けた〔Habig ofm ed., Marion, "Blessed Odoric Matiussi of Pordenone", ''The Franciscan Book of Saints'', Franciscan Herald Press, 1959
修道士オドリコは1318年4月に東方へと派遣された。パドヴァから出発し、ヴェネチア経由でコンスタンティノープルへ向かい、黒海を渡ってトラブゾンに達した〔。そこからアルメニアメディアペルシアへ向かった。これらの場所は全てフランシスコ修道会が布教拠点を建てていた〔。スルターニヤからカーシャーンヤズドペルセポリスシーラーズバグダッドなどの地域を経てペルシア湾に達した。アイルランド人の同僚であると一緒にホルムズからインドへ渡り〔、ボンベイ近郊のターネーに上陸した。
この町には四人のフランシスコ修道会士がおり、彼らのうち三人はイタリア人で、もう一人はグルジア人だった。彼らは少し前にムスリムの知事の手で殉教させられていた〔。殉教した修道士の骨をカタルーニャの修道士とドミニコ修道会の修道士(インドのの最初の主教)が集めてSuperaに運び、そこに埋めた(Superaは古代の地誌に登場するSupparaであり、ボンペイ北方26マイルにある現在の)。オドリコは、四人が葬られている墓地に来て遺骨を掘り出して、旅行に携えてゆくことにした。この後、フランドリナ、シンギリン(現)、クイロンセイロン島を通り、北部ケーララのマラバールに達した。マラバールにはトマスの遺骸のある教会があった。
彼はインドからジャンク船に乗りスマトラ島ジャワ島に達した。ジャワ島に関する記述では、ジャワの王はカタイの汗と何度も交戦して撃退した、との記載がある(フビライのジャワ遠征を示していると思われる)。ボルネオ島付近を北上しザンパ(チャンパー)を経て南下、ニコバル諸島、シラン島(セイロン島に比定される)、ドンディン島(アンダマン諸島に比定される)を経てチェンスカラン(広東)に到着した〔一度南ベトナムのチャンパーに達してから南下してインド洋の島々(セイロン島、ニコバル諸島、アンダマン諸島の記述が続いている。写本の順番が誤っているか、またはザンパをチャンパーとする比定が誤っているかいずれかだと思われる(家入敏光訳pp249-250)〕〔チェンスカランは上部インド地方、或いはManziと表記されており、蛮子(元代北方人が南宋旧領の人々を卑下した呼称)、ペルシア語のMachin(マーチーン(大シナ))、サンスクリットのMaha China(大シナ)など諸説ある。第26章に、マンジは大汗の支配する12の領域の一つと記載がある(家入敏光訳p118)〕。広東からザイトン(泉州)、フゾ(福州)、カンサイ(杭州)、チレンフ(南京)、イアムザイ(揚州)、レンズィン(臨城)、スンズマトゥ(済寧)、カンバリク(北京)に到着した〔カンバリクはKhan-baliq(モンゴル語で汗の都)。大都(Taido)とも表記されている(家入敏光訳p272)〕。ザイトンにはフランシスコ修道会の修道院が2つあり、オドリコは、そこにインドから携えていた殉教者の遺骨を埋葬した。
オドリコは1324から1327年まで約3年間滞在し、モンテコルヴィーノに建設された教会の一つに関係していたと思われる(モンテコルヴィーノは1328年に死去した)。3年間の滞在後、北京を発って帰国の途につき、西方へ向かい、50日後にプレスター・ジョンの地へ到着、その後トザン、カンサン、チベットラサ、ミレストルテ〔この地はフレグが陥落させた山の老人がいた地との記載がある(家入敏光訳pp132-133)〕などを通過し、1329年末か1330年初頭にヴェネツィアに到着した。
彼の北京滞在は1324-27年と推定されているが、それは、帰国後彼の旅を口述を筆記したソラーニヤのグリエルモ修道士が、1330年5月に採録したと筆記していることで帰国が1329年末から1330年初頭と考えられること、インド西部滞在が1321年か22年頃までであると考えられることから、中国滞在は1323年初頭から1328年末までの間の3年間だと推定されている。1330年5月にパヴィアの聖アントニウス教会にて旅行記録がラテン語で筆記された。帰国後オドリコは、アヴィニョンの教皇を訪問しようとしたが、ピサで病気となり故郷にある中心市ウーディネへ戻り、1331年1月14日そこで死去した。
長旅の間、を伴っていたと考えられ、ジェイムズ修道士は、その名がオドリコ死去直後のウーディネの公記録に見えており、 ''Socio beau Fratris Odorici, amore Dei et Odorici(修道士オドリコの恵まれた仲間、神とオドリコの愛する者)''との記載がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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