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エル・タヒン : ウィキペディア日本語版
エル・タヒン

エル・タヒン (El Tajin)は、古典期後期 (A.D.600-900) から後古典期前期 (A.D.900-1200) まで繁栄した祭祀センターであり、世界遺産に登録されている考古遺跡の一つである。ベラクルス州、パパンテカ山塊 (Sierra Papanteca) の脇、パパントラの町の南西8kmにある、二つの渓谷の間の北緯20°38′35″、西経97°22′39″の地点に位置する。エル・タヒンという名称は、タヒンと呼ばれる12人の老人がこの遺跡に住んでおり、彼らは雷雨の神であるという地元のトトナカ族の神話伝承に由来している。前述のように現在トトナカ人が近隣に住んでいるためトトナカ人の建てた都市とされてきたが最近の研究の成果に伴いマヤ族と遠い血縁関係のあるワステカ人によって建設されたものではないかという説が有力になりつつある。
==研究史==
エル・タヒンの存在は、1785年スペイン人技術者のディエゴ・ルイスによって初めて報告された。その後、1811年ドイツ人の地理学者で自然科学者であるアレクサンダー・フォン・フンボルトが訪れたのをはじめ、博物学に関心を持つ旅行家のファーザー・マルケス (Father Marques) 、写真家のテオベルト・マーラー (Teobert Maler) 〔オーストリア人の腕利き写真家で、怒りっぽい人物として知られる。チャールズ・ピカリング・パウヴィッチによってやとわれ、セイバル、ティカル、ヤシュチラン、ピエドラス・ネグラス、ナランホなどの遺跡の踏査及び撮影を行った。〕、画家のCharles Nebelなどが訪れている。Nebelは、版画を1839年に公表している。エル・タヒンの石彫の図像研究を最初におこなったのは、エレン・スピンデンでその成果は1930年代のはじめごろに発表されている。アウグスティン・デ・ラ・ベガ (Agustín de la Vega) が壁龕のピラミッドの補強をはじめとして、エル・タヒンの建築物と石彫についての集成を作成している。1939年からJosé Garicia Payonがエル・タヒンの北半分にあたるタヒン・チコのうち、南側の低い部分にある建造物A,B,C,D,Kとその南側に見下ろす位置にある壁龕のピラミッドをはじめ、3,4,5,15,23号の11ヶ所の建物の補強と復元を行なった際に、建物の層位的な前後関係と、テオティワカンの建造物との比較研究を行っている。
土器の研究は、ウィルフリッド・デュ・ソリエ (Wilfrido Du Solier) によって1939年からはじめられ、その成果は、1945年にINAH〔Instituto Nacional de Antropología e Historia(国立人類学歴史学研究所)の略称。〕の年報で報告されている。その後Krotserによって1970年代にまで受け継がれ、土器の出土量から人口の推定も行われた〔Krotserは、古典期前期のエル・タヒンの人口は、3000人から5000人くらいと算出した。〕。
さらに1984年にINAHとベラクルス大学によってProjecto Tajinとして測量、発掘調査を含めた全般的な調査と壁龕のピラミッドの修復が行われている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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