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エドマンド殉教王 : ミニ英和和英辞書
エドマンド殉教王[えどまんどじゅんきょうおう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

殉教 : [じゅんきょう]
 (n,vs) martyrdom
教王 : [きょうおう]
 (n) Pope
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

エドマンド殉教王 : ウィキペディア日本語版
エドマンド殉教王[えどまんどじゅんきょうおう]

エドマンド殉教王 (Edmund the Martyr。841年 - 869年11月20日) はイースト・アングリアの王であった殉教者。まだ若い855年にイースト・アングリアの王位を継いだ。最初期の、そしてもっとも信頼できる史料においてエドマンドは先のイースト・アングリア王であるWuffingの家系の子孫であるとしており、別の史料では彼の父親はイースト・アングリア王エセルワード (:en:Æthelweard of East Anglia) であるとする。ウェルズのジェフリー (en) は、彼をサクソン人の王であるアルクムンド (Alcmund) の末子であると主張する。エドマンドは855年のクリスマスエルムハム司教 (Bishop of Elmham) のハンベルタス (en) によって戴冠させられたといわれていた。
869年にエドマンドは大異教徒軍 (:en:Great Heathen Army) との戦いで敗北し捕らえられ、拷問の末に殺され殉教者となった。彼は正教会ローマ・カトリック、そして聖公会において列聖されている。王の身体は最終的にBeadoriceworth (現ベリーセントエドマンズ:en:Bury St Edmunds) に埋葬され、彼の墓への巡礼は12世紀に入って修道士たちによって教会が拡張されるとより活発になった。アングロ・ノルマン貴族らのエドマンドに対する人気は、ノルマン朝はそれ以前の伝統と連続性があるという主張を正当化するのを助けていた。エドマンドの紋章旗はアジャンクールの戦いにおいて掲げられた。
== 生涯 ==
エドマンドはイースト・アングリアの王であった。フルーリのアボー (:en:Abbo of Fleury)、続いてウスターのジョン (:en:John of Worcester) は"ex antiquorum Saxonum nobili prosapia oriundus,"と記しており、これは翻訳するとエドマンドは海外に起源を持ち、大陸の古サクソン人の一員であったという意味になるとみられている。これは彼の父であると断言されているアルクムンド王について、実在の証拠がひとつも無く非常に疑わしい説である。最初期の、そして最も信頼できる史料ではエドマンドは先のイースト・アングリア王であったWuffingの家系であるとされる。それにもかかわらず、古サクソン人起源であるという物語は後に、エドマンドが謎のアルクムンドとは別としてニュルンベルク出身であり、イースト・アングリア王エセルワードとの養子縁組とその後継者指名、そして彼の王国であると主張するハンストン (:en:Hunstanton)への上陸という具合に語られていく「完全な」伝説を加えて広められた。
他の史料では彼の父はエセルワード王であると語られている〔。確かなことはエセルワードが854年に死んで王位がエドマンドに受け継がれたとき、その少年は14歳であったということである。そのため彼の生まれ年は841年とされる〔。
エドマンドはハンベルタスによって855年12月25日にBurna (おそらく現在のサフォークに位置するブレス・セント・メアリー:en:Bures St Mary)において戴冠させられ、当地はその当時王都として機能していたといわれる〔〔〔Bishop Humbert of Elmham was later venerated as Saint Humbert〕。
その後の14年間エドマンド王が何をしていたのかはほとんど分かっていない。エドマンドは公明正大で模範的な王であり、こびへつらう者に対しては頑なであったということは記録されている。また、彼は1年間ハンストンに位置する塔に退いてその中ですべての聖書詩篇を学び、そのためそれらをそらで暗唱できたという記述もある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エドマンド殉教王」の詳細全文を読む




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