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エティエンヌ=ニコラ・メユール : ミニ英和和英辞書
エティエンヌ=ニコラ・メユール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エティエンヌ=ニコラ・メユール : ウィキペディア日本語版
エティエンヌ=ニコラ・メユール[ちょうおん]

エティエンヌ・アンリ・メユールあるいはエティエンヌ・ニコラ・メユールEtienne Henri Méhul / Etienne Nicolas Méhul, 1763年6月24日 - 1817年10月18日)はフランス作曲家
== 生涯と作品 ==
アルデンヌ県のジヴェに生まれる。実家があまりに貧しかったために正規の音楽教育を受けられず、地元の貧しい盲目の教会オルガニストに音楽の手ほどきを受けた。それでもメユール少年は才能ゆえに、わずか10歳でレコレRécolletsの女子修道院のオルガニストに採用されるほどだった。1775年に、ドイツ人の音楽家ヴィルヘルム・ハウザーが、ジヴェから数マイル離れたラヴァルデューの男子修道院のオルガニストに採用されると、メユール少年は時々ハウザーの許に学びに通った。
1778年にさる将校に連れられパリに行き、クラヴサン奏者のエデルマンに入門する。1781年の最初の器楽曲の試みが成功しなかったため、声楽曲や劇音楽に注意を向けるようになる。修業中のメユールに、グルックが助言を与えたとも言われている。
グラントペラ座(Grand Opéra)に自作の歌劇《コラとアロンソ''Cora et Alonzo'' 》を上演してもらおうと6年がかりで骨を折るも幾度も挫折。だが、オペラ=コミック座に《ウフロジーヌとコラダン''Euphrosine et Coradin'' 》を提出すると、受理され1790年に上演され、たちまちメユールの名声を確固たるものとした。歌劇《ストラトニース''Stratonice'' 》は1792年の上演で熱狂を巻き起こした。後にこの作品は、ベルリオーズの高評を得、とりわけ序曲が称賛された。その後のオペラ上演はあまり成功しなかったが、極めて優れた3作《アンリ4世の青春時代''La jeunesse d'Henri IV'' 》《ユータール''Uthal'' 》《ジョゼフ''Joseph'' 》によって、オペラ作曲家としての名声はさらに高まることとなった。《ユータール》はヴァイオリンなしのオーケストラのために作曲されている。
メユールは、パリ音楽院の四人の督学官のうちの一人となるが、この任務はつねに、早期学習の不十分さを自覚させるものだった。《ティモレオン''Timoléon'' 》と《アリオダン''Ariodant'' 》(1799年)と、《ビオン''Bion'' 》が相次いで発表された。ケルビーニとの共作で《エピキュロス''Epicure'' 》を作曲。次のオペラ《''L'irato, ou l'emporté'' 》(1801年)は、第一総統ナポレオン・ボナパルトに献呈されるも上演は失敗に終わった。
メユールは24曲の歌劇のかたわらで、1808年から1810年までの間、たくさんの(しばしばナポレオンの依頼による)革命政府の記念歌のほか、カンタータや4つの交響曲を作曲した。《交響曲 第1番 ト短調》は、1830年代後半のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でもメンデルスゾーンの指揮でとり上げられ、シューマンを含む聴衆によって絶賛された。この作品は、ベートーヴェンの《交響曲 第5番》と同じ年に作曲されただけでなく、(第1楽章の不協和で怒るような雰囲気や、第3楽章のピッツィカートなど)様式的にも共通点が認められ、シューマンが、果たしてメユールはベートーヴェンを知っていたのかと訝ったほどである。しかしながら、19世紀初頭にフランスで人気のあった、ハイドンモーツァルトの交響曲の影響を独自に消化した部分も散見され、特に《交響曲 第2番 ニ長調》は、祝賀的な雰囲気においてこの二人との精神的な結びつきがいっそう明確である。
メユールは胸を患うようになって健康を崩し、1817年パリに没した。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、同時代の巨匠ゴセックのそばで眠っている。メユールの作品は多くの作曲家、とりわけドイツ人作曲家に影響を与え、中でもヴェーバーヴァーグナーの名を挙げることができる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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