翻訳と辞書
Words near each other
・ ウタリ協会
・ ウタワラ
・ ウタント
・ ウターカート駅
・ ウダ
・ ウダPAOマサアキ
・ ウダイ
・ ウダイカンバ
・ ウダイプリー・バーイー
・ ウダイプリー・マハル
ウダイプル
・ ウダイプル藩王国
・ ウダイプール
・ ウダイ・サダム・フセイン
・ ウダイ・サッダーム・フセイン
・ ウダイ・ザハラーン
・ ウダイ・シング
・ ウダイ・シング (マールワール王)
・ ウダイ・シング (メーワール王)
・ ウダイ・シング2世


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ウダイプル : ウィキペディア日本語版
ウダイプル

ウダイプルヒンディー語: उदयपुर, 英語Udaipur)は、インド北西部のラージャスターン州に属する都市である。ウダイプル県の行政庁所在地。アフマダーバードの北東約 200km、アラーバリ山脈南東部の標高約 750mの丘の上にあり、ピチョーラ湖に面する。北西インドとアラビア海とを結ぶ交通路上の要地を占める。公用語ヒンディー語、人口は約60万人(2014年)。ウダイプールと英語風に発音されることもある。
湖畔宮殿都市であり、町並みは、白い建物の景観が美しく「ホワイト・シティ」とも呼ばれている。



== 歴史 ==

===メーワール王国===

ムガル帝国の第3代君主アクバル1世の時代、ラージプートの各王国に恭順するよう呼びかけていた。他の王国はムガル帝国の強大な力の前に屈し恭順を受け容れたが、ラージプート族のなかでも最も高貴なシソーディヤー氏族に属したメーワール王国だけは頑強に対抗した。メーワール王ウダイ・シング2世はムガル皇帝アクバルへの服属を拒否したため、1567年に首都チットールガルを包囲された。
メーワールのラージプートたちはアクバルを何度も死に追い詰めるほど徹底的に抗戦し、再三に渡る降伏の勧告にも屈しなかった。落城が決定的になると、8000人の死装束をまとった戦士たちが城門を開いて打って出ると同時に、城内の数千の婦女子は純潔を守るために火中に身を投じた。数次にわたる攻防で敗色濃厚となった時、また数千の兵士が出陣して討ち死にをしたという。
翌年2月に首都は陥落した。一方、落ち延びたウダイ・シング2世は、チットールガルから約115km離れた土地に新しいメーワール王国の新しい都を築いた。これが現在のウダイプルである。
町の名前はウダイ・シング2世の名から付けられ、プルはヒンディー語で都市を意味することから、「ウダイの都市」という意味になる。
山に囲まれたウダイプルで、川を堰き止めて、ピチョーラ湖ファテー・サーガル湖など多くの人造湖を築いた。湖は隣の湖とつながり水量を調節するようになっている。水利の模範ともなるこの湖灌漑により、長く繁栄してきた。
 
1572年2月、父ウダイ・シング2世が死亡したことにより、その息子プラタープ・シングが、王位を継承した。引き続きムガル帝国に抵抗し続けた。プラタープ・シングは強大な帝国に対して、他のラージプート諸国の援助もなく戦い続けた
ハルディーガーティーの戦いでメーワール軍は奮戦し、一時は帝国軍を混乱に陥れた。だが、アクバル自身が率いてきた援軍が到着し、不利を悟ったプラタープ・シングはアラヴァリ山脈地帯へ撤退、大半のメーワールの土地をムガル王朝に奪われる。しかしプラタープ・シングチットールガルを取り戻すまでは、贅沢もせず、金銀の食器も使わず、草の上で眠り、髭の先を上に曲げることもしない」と復讐の誓いを立て、ゲリラ戦に戦法を変えてムガル軍に抵抗し、遂にチットールガルとマンダルガル以外のメーワールの土地を取り戻すことに成功する。プラタープ・シングのゲリラ戦法は、後にアフマドナガル王国の武将マリク・アンバル、そしてマラーター王国の創始者シヴァージーに受け継がれた。
その後、英領下にも同藩王国の主都として存続した。メーワール王国の歴代君主たちは、ピチョーラ湖を見下ろす宮殿を中心に、調和よく歴史的建造物を建設し、「東洋のベニス」「湖の都」などと呼ばれ、その美しさがたたえられている。ラージャスターン州南部の行政、商業の中心地である。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウダイプル」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.